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パリ発 五感の穴

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舞台ノート・芸術にできること②

二日に渡る短いながらも充実した舞台の手伝いが終わった。他のスタッフはあと5日ほど本公演に参加するが、私はあいにくそうもいかない。スタッフの皆さんの好意で、短期間のみの参加が実現した。さて、舞台を通して芸術にできることを考えている。答えは、ない。ないから、考える。考えて、つまずいて、悩んで、感じたことを告白する。意見を頂戴する。その問答と行動の繰り返しがつまりは、人の也を創ると考えている。というわけで、芸術にできることシリーズ2回目。

<芸術にできること②時間と空間の共有>
芸術の中でも、舞台は特にそうなのかもしれない。舞台をあまり見ない私が今回強く感じ、また前述のスレイマン氏の手法にも巧みに取り入れられていること、それは舞台が「現実」の軸で流れている点だ。そう、「東京芸術祭・クウェートのシアターを観る」で頂いた、Yuからのコメントを思い浮かべる。

>日常-非日常という点では舞台芸術は特に現実を反映しやすい。なぜなら俳優またはダンサーの体がもう既に「現実」のものだから。

スレイマン氏の作品では、アッバース朝創世期という今から14世紀以上前の時代が舞台となっている。想像もつかぬ見知らぬ時代背景に圧倒することなかれ、演出の上手さゆえか、それは私達の時代が浮かび出てくる。遠い過去の事柄は、今日の中東状況を暗示する。だが、それは演出のみではない。実際に「今この瞬間」を共有すること、「今この空間」を共にすることで、舞台は目に見えた現実として観客の前に押し出てくる。しだいに前面に出てきたアッバース朝の「お話し」を通して、実はこれは現代社会に私達が世界で直面する「お話し」に通じているのではないか、と感じるようになる。

舞台では、インタラクティブ=相互作用的な関係が築かれていく。もちろん、見る側と芸術の作り手の差は明確なのだが、ブラウン管を通したり、活字媒体を通して、ある意味編集可能な媒体にはない、息遣いが聴こえる。それは時に、私をどきっとさせる。そういえば、米国における生放送が少なくなって、生放送の場合も、何秒か時間をずらして放映をするようになったらしい。操作可能となるということは、ハプニングは少ない。テレビを観る時、新聞を読む時、私は「従順な観衆」に成り下がる。もしくは、「徹底的な批判的精神を持つと自負する評論家」に成り上がる。

時間も空間も身体を離れたところで共有することができる時代だ。インターネット世界の広まりはその顕著な例だし、この中では、皆が同時に見る手であり作り手になれる。その反対に、舞台など芸術の多くは、「見る側と作り手」の関係が明白なのに、相互作用的要素を存分に発揮する。随分な矛盾を感じるけれど、やはりそこで大きい点は、空間や時間を共有することにあろう。

空間・時間を共有することの意味は大きい。スレイマン氏の作品の最後では、それまで舞台の中で様々な権力者同士の闘争があり、それを傍観するわれら観客は、最後に舞台から映し出された鏡で、舞台の中に取り入れられる。もうその「一体」なのだ。意識的な演出で、われわれはもはや従順な観客に成り下がることも、わたしは特別だと自信満々な評論家に成り上がることもできない。

芸術は、様々な問題意識を人々の髄まで浸透させる。それは、「従順な観客」や「自意識過剰な評論家」、はたまた「積極性を持ってあちらのページ、こちらのページを散歩して、意見するネット社会の申し子」さえも、包括してしまう。隠れミノはすっかり剥がされて、アッバース朝も現代中東問題も、グローバリゼーションも、全て自分は関係ないなんて言っていられない、と気がつかされるのだ。
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by Haruka_Miki | 2006-03-13 00:00 | 芸術
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