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パリ発 五感の穴

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嘘をついてもいい日

正直に真っ直ぐ、誠心誠意人と向かい合いなさい、と親の躾以前の問題として、私はそのような姿の美しさを自然と理解し、嘘をつくこと、ものを盗むこと、暴力を振るうことという類の言動の愚かさは、いけないこととして暗黙の了解のうちに教えられた。教えられた、というよりは、友達と交流を深めたり、祖母を気遣ったり、家族で生活をする中で、ごく自然に身につくものかもしれない。何も私が麗しい人間なのではなく、大抵こうした所作を人は道徳として、身につける。

人間なので嘘をついたことがないとは言わない。実際、小学生のころ、落し物のブルマーを見て、「やだー、誰ブルマーなんて落としたの」と大声で言っておきながら、実際は自分のものだったとか、理科で悪い点数を取ったのだけれど、「テストはなかったよ」などといいながら、机の後ろに丸めて捨てておくとか、そういう体たらくな嘘なら随分とついた。

私の嘘を思い返せば、その多くは少々お頭が弱いというか、呆れてくすっと笑ってしまうタイプの嘘が多い。それは、よく言えば「嘘がつけない人」ということになるし、悪く言えば「小心者で大人じゃない」とも言えるのかもしれない。大体、嘘をついているというどきどき感は顔に出るし、声も変わってしまうし、はっきりいって、ばればれという場面が多い。

そんな私が、ちょうどおととい時計の針が変わった頃に、日付けに気がついた。カレンダーに目をふとやれば、4月1日。巷で言うエイプリルフールだ。これはこれは、と私はにやけた。いつもは、嘘をついてもなかなか上手くいかない。けれど、こんな日なら、一世一代の名演技の一つもできるってもんだろう。小心者にとって都合がいいのは、「嘘をついてもいい日」という世界的な基準、人々の了解があることだ。世界の道徳観も何もひっくり返す一大事だ。

ちょうど、インターネット上でお喋りをしていた友に平気でおかしな嘘をついてみた。随分とこっけいでびっくりするタイプの嘘だった。それは、映画・アメリの一場面にも似ていた。ある日、スーパーに買い物に行ったわ、と同じトーンで重大な問題を打ち明けるようなものだ。彼の沈黙の長さったらなかった。困り果てて、どう返答するものか考えているのが画面を通して伝わった。けれど、ネットの良さといえば、そんな彼の様子を見て動揺した自分をさらけだすこともないのだ。

人間、なぜ「○○していいよ」と言われると、いとも簡単にそのモラルが低下するのだろう。いつもならば、絶対につかないような嘘をペラペラと口にしても平気なのだ。

そこで考えてみた。もしも、365日のうち、364日が「嘘をついてはいけない日」と銘打ったらどうなのだろう。不思議の国のアリスの「お誕生日じゃない日おめでとう」のように。こうなると大変だ。特別な日と特別でない日が逆転して、特別の日の意味合いが変わる。世界が新しいスタンダードで、364日「嘘をついてはいけない日」を声高にいったら、人々はうんざりしてしまうのかも。

1年でたった一度、しかも合理的理由もなく、「嘘をついてもいいよ」と言われるから、世の中の道徳や共通の理解を完全に覆す理屈の日が、突然一日設定されてしまったから、人々はなんだかおかしな、こそばゆい気持ちになる。

いつもは当たり前なことを、180度変えてみる。すると、当たり前、と自分が思い込んできたものが、実は当たり前でないのかも、と思う。それが不道徳なものでも、どこかで自分に甘えがあるから、そんな怠惰な状況を享受しようとしてしまう。私も、いたずらの精神をめきめき発揮して、今年のエイプリルフールは大成功だった。

そんな風に嘘を思い切り楽しんだ後は、きっと、たぶん、おそらく、しばらくは嘘はつくまい。少なくとも性質が悪い嘘は、あと1年はお腹いっぱいだ。「嘘をついていい日」という前向きな日は、「嘘をついてはいけない日」という否定的な日よりもインパクト大で、結果的には嘘をつきたくなる人は案外少なくなるのかもしれない。
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by Haruka_Miki | 2006-04-03 00:00 | 五感
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