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パリ発 五感の穴

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腐っても納豆、腐らなくても豆腐

我が家の食卓のエースといえば間違いなく、ザ大豆製品です。

特に、豆腐のことはひいき目で見ていて、朝晩で一丁平らげることもあります。豆腐も、気分によって絹豆腐、木綿豆腐ととっかえひっかえ。昔は当たり前のように木綿だったのですが、最近はお味噌汁なぞにさらっと入る絹もいいなあと。けれど、個人的には麻婆豆腐は木綿だなあ、なんて。ざる豆腐に醤油を少々、かぼすなどを絞るのも乙。ま、いわゆる手抜き食卓の万能選手でもあります。納豆も捨てがたい。納豆は、ミシガン州でも食べてたよ。あなたミシガンをあなどっちゃいけません。納豆もあるんです。日本人駐在員文化があるところには、日本食材商店があって、納豆もあります。納豆の香りが苦手で、これを読んでいるだけで脳震盪起こしそうだったら失敬。目をつぶって(鼻を閉じて)ね。

さて、納豆と豆腐の語源については諸説があるとの話。学生の頃は、中国から日本に納豆や豆腐がやってくる時に、表記が逆になってしまった、って噂で聞いて納得したものであります。というか、そうだと信じ込んでた。ここ13年は軽く。そしたら、ついこの間こんな話を聞いたの。中国では「腐」という感じの意味が日本語とは異なって、「柔らかく固まる」という意味があるとか。確かに、「湯」という中国語は、日本語の「お湯」とは異なって、「スープ」という意味なんだよ、と友に教えてもらったっけ。そして、納豆についても、お寺の納所という場所で作っていたからとか。おかしなもんです。まず、疑いもなくその食物を「なっとう」・「とうふ」と覚えて、そのうち、「納豆」・「豆腐」と書くのだと習い、しかしなんだか変、「腐っても納豆」、「腐ってないのに豆腐」と言葉のおかしさに気づいた。やっぱり逆に使われてしまったらしいと噂で知り、そうなのかと納得した。それから月日が経ち、あの解決済みと思われた、納豆・豆腐論争が再び勃発。ある時、いや違う、元々中国では真っ当な意味があってそう名づけられた!という強い説を説かれたのです。

段々、「概念」にとっての「言葉」が何か分からなくなってくる。最初は、九九掛け算並みに、はいはい!と鵜呑みにしていたことでも、やがて意味合いを知り、あれ?これでいいのかな?と疑問を持ち始める。すると周りも、あんたは正しいよ、確かにこうらしいよ、と言う。そうだったのか、と納得して日常の生活をしていたら、唐突に、いや元々の呼び名は正しいのだ、理由はこうだと、一度疑い、理解したことがまた一から振り出しに戻る。

なんとなく、社会もこういうことの繰り返しかなと。人間生活を営む上で、言語というものが発達してきた。結局、他人様はやはり自分とは違います。自分のうちにある「気持ち」や社会にある「存在」や「概念」を示す上で、感じてもらうために「共通項」が必要だ。その絶大な共通項が「言葉」です。「ことば」があるから、意思疎通がスムーズになって、互いに分かり合いやすくなる、はず。

けれどねえ、納豆や豆腐でさえ、これだけ熱い、多様な語源論争が交わされるわけです。昔がどうであれ、いまを見つめて、いまナットウは「納豆」で、とうふは「豆腐」だからいいじゃないかといえばそうなんだけど。でもねえ、あなた納豆や豆腐「ごとき」でも色々勘違いや思いをめぐらせるってことは、「物体」一つでもこれだけの話になるってことは、これが「思想」とか「感情」とかだったらどうなるんだろう。

「言語」の可能性と挑戦を「腐っても納豆、腐らなくても豆腐論」とでもまとめて、熱くなる前に今夜はファジーにこの辺で、さらば!
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by Haruka_Miki | 2006-04-27 00:00 | 五感
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