ブログトップ

パリ発 五感の穴

fivesense.exblog.jp

作品の線引き

二晩連続で映画です。先週、上野の国立博物館横にある一角座で、原作が芥川賞受賞している「ゲルマニウムの夜」を観てまいりました。見に行ったというよりは、土曜日の朝から早起きをして、シャワーを浴び、紅茶をたっぷり飲んで、運動靴の紐をちょちょっと結び、緑の電車に揺られて、夏の風物詩、入谷のあさがお市をひやかしにいったついでに上野に立ち寄ったところ、やっていたので朝からこの重い作品を見ようかしら、となった運び。

朝10時にわざわざ芸大横までやってくる物好きはあまりいない、ということで、なんと観客は一人。蚊取り線香のかほり漂うその器の中で、一人どしりと構えたわけで。どしりと構えたのはいいんだけれど、なんともこれがあれだなあ。映画の内容が内容だけに、一人で見るという行為が、作品の内容を際立たせてくるわけで。なんとなく、劇を見ているような。なんとなく、本を読んでいるような。モラルってなんでしょう。宗教ってなんでしょう。と、近年さっぱり考えないトピックに一石を投じる内容です。朝10時からではない時間に、一見の価値あり。

作品の内容もさることながら、そう、なんというか作品を取り巻く環境がまたなんとも。この映画のために、国立博物館内に「一角座」という映画の器を作ってしまったわけです。すごい心意気よね。そして、係員の方々の礼儀正しさ。ジーンズにコンバーススニーカーで、髪の毛はムーミン谷のオレンジ頭のお嬢さんのようになっていた、自分のたるさが申し訳ないくらい。

さて、ああいう映画は、やはり一角座のような特別空間でないとだめなのでしょうか。シネマコンプレックスではやはり違うのでしょうか。ミニシアターでさえない、一角座のようなところでなければあれなのかしら。そして、芸術全体の永遠のチャレンジを考えてしまうのであり。できるかぎりの人に触れてもらい、感じてもらい、インパクトを与えるミッションと、同時にメッセージ性を薄めたり、大量生産的にすることはできるだけ避けたいわけで。けれど、芸術は必ずお金の採算性というクールなトピックも考慮するべきであり。

作品が作品であるために、作品はもはや作品だけでなく、そこから派生する全ての外的要素も作品だということならば、こだわりは捨てたくないし、けれどそこで作品はスクリーンの中と割り切り、配給を専門家に任せることも一つであり。芸術の作り手とそれを伝える者と。形も方法も様々。その多様性が認められる社会で、人間でありたいのです。正解なぞはないはずですもの。

ゲルマニウムの夜公式ページ http://www.aratofilm.com/
[PR]
by Haruka_Miki | 2006-07-10 00:00 | Nippon
<< 理屈じゃないもの① 撮られるということ、観るということ >>