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パリ発 五感の穴

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ピカドン

世に「正義」というものがあるならば。

それは「悪」に対する対概念ではないと思う。対概念として考えれば考えるほど、その「正義」は疑わしいものになる。完全なる正義が存在し得ないのであれば、それを目指すプロセスを重ねることそれこそに意義があるのかもしれない。それは、近年の国際問題の中で総じて葬られた姿勢であり、誰が悪であるか、誰が正義であるかは、暗黙の了解のうちに、ないし鶴の一声的に決められていってしまう。

世に「平和」という状態があるならば。

それは、「戦争」の対概念ではないと思う。対概念として概念を浮かび上がらせるということはつまり、平和を定義するために戦争という状態の必要性を認め、どこか正当化することになる。平和は、戦争でない状態を続ける努力ではなく、平和に前向きに向き合い、頭ではなく心で、五感で理解をし、その意味合いを内面化し、相手の説得を続けようとする、たゆまない努力にあるのかもしれない。
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難しいのは、「正義」とか「平和」の定義や受け止め方は、話し手によって異なり、利害関係が全てを決めていると言っても過言ではない。そこでは、純粋な正義とは何か、平和とは何かを熟考するのはナイーヴで、だからディプロマティックに動くことが必要とされる。しかし、受け止め方が違うとか、相手がわからずやとかで、同じ論法になることは、つまり自分もそのレベルにおとしめることであり。

海の向こうで、今日核実験があったとの発表。私はすごく緊張している。どれだけ安全性が確認されようとも、そこに完全などはない。いま、明らかな形で「悪」はますますその悪名を高めていて、対する私達の「正義」はより強い形で主張されてしかるべきだ。リスク社会が拡がるほど、私達の不安は増大し、だからこそ、「正義」を振りかざす追い風がある。

まず目前の問題としてのあの国の核実験。それは、あくまでディプロマティックに解決策が練られる必要があり。がしかし、それにとどまらず。唯一の被爆国であること。それは、いくらかの問題をはらむ、今日の核の拡散と防止に対する世界の枠踏み自体に疑問を呈し続けることだと思う。

「正義」が「悪」をたたくことによって可能になる「平和」ではなく、「正義」を自己批判し、よりよいものにカイゼンしていく中での、積極的な「平和」。それは理想主義すぎるのでしょうか。
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by Haruka_Miki | 2006-10-09 00:00 | 五感
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