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パリ発 五感の穴

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言語、それ以上

アンダーワールドのライブに足を運びました。人が沢山いるところに行くのが億劫な性質ですが、週末〆切で目処をつけたかった課題も上がったので、出かけることに。こういうのは、音楽が大好きな中学時代の友達Kちゃんの十八番。音楽フェスティバル系統のものではチケットの手配から当日のことまで任せっきりで、いつも抜群にいいタイミングで声をかけてくれます。ありがたいなあ。あいにく、私は彼らの2002年以降の曲はよく分からないので、Trainspottingで使われていたBorn SlippyやRez、Cowgirlが非常に懐かしく。

こういうイベントに行くと、私の場合、とかくビジュアルエイドに目が行きます。大きな画面で、曲の合間合間に入る映像。強烈なブリティッシュ英語で語りかける男性。男性の声は聞こえにくいので、映像の下には字幕。日本の公演には関係なく、英語の字幕が入ります。その意味を聴衆の全員が分かっているか。多分皆完全には字を追えないのです。しかし、それぞれの聴衆が十分何かを感じ取っているはずです。

話しは変わりますが、日本人の作家の本を、外国人の友人にあげるということになり、永井荷風の「墨東奇譚」の訳本がそのうちの一つでした。サイデンスティッカー先生の訳です。人にプレゼントをしてから、自身も英語版をちらっと読んでみたのですが、大先生に向かって不仕付けは承知で言ってしまうと、どうも違うのです。あの永井荷風の語り口調、噺家の訓練を積んだり、とかく印象的な文語の口調は、英語には置き換えにくいのでしょうか。

本をあげた友人は、仕事の合間に趣味でクリエイティブライティングのクラスを受講していて、授業のうち一つとても面白かったトレーニングについて教えてくれました。それは、何語でもいいから、自分が全く知らない言語の詩をインターネットなどで見つけてきて、辞書は使わず、雰囲気を感じ取り、訳をしてみるというものです。頼るのは、自身のインスピレーションのみ。これが案外当たるんだそうだから不思議です。辞書も使っていないのに!

異文化との出会いが多くなる分だけ、言語のバリアを感じる場面も自ずと増えると思うのですが、そもそも言語の前提となる文化がまた多様なら、互換性を考えるのもさっさと諦めて、その文化をどっぷり心で聞いてしまえくらいの心意気がありなのかもしれません。

言葉の奥深さを感じると、それ以外の手段、それが映像なり音なり、肌触りなり、香りなり、もうそのレベルでの言語はよっぽどストレート。昨夜のイベントなども、音楽や映像を通じて、あれだけの多くの聴衆を熱狂させるわけです。第三者の媒介人も必要ありません。

その中で、翻訳というのが、実際にはとてつもなく難しいことだと最近思います。自身が感じたことを他の言葉で書いてみて、母語で言いたいことと、他の言語で言えることの範囲が違うということに対する消化不良を感じるのとは全く違う種類の困難です。

趣味で翻訳の勉強をしてみたいのですが、その前に前出のクリエイティブライティングの授業を受けるのもありかと今思案中です。

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(写真の小学生達は、その後通りすがったおばあちゃまに細かく道を教えてあげていて、よいこでした。)
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by Haruka_Miki | 2007-11-24 00:00 | 五感
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