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パリ発 五感の穴

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あるふとした考え

私は、多分そこまでは夢想的ではないし、シニカルかつ現実主義的で冷ややかな見方もする性質なので、貧困撲滅、とか最貧国の人を救え、とかそういう命題にそこまで心が躍るわけではないのだが。特に、開発には懐疑的で、開発学というものの力関係に、援助するという思考回路に、どこかなじめないでいたことは告白しなければならない。そうは言っても、ふと、もう一度自分の仕事を考えた時に、出来上がった従来型の金融市場のスキーム生きることは、特にそこに適当な命題を見つけられないとするなら、その仕事は、今を生きるというよりは将来の蓄えとしていい過程と受け取っていた。だから、何だかんだ言って、世界の端の誰も何も気にせず、気にしてもどうしようもない状況について―人々のいがみ合いであり、殺し合いであり、政治的圧力であり、子どもが傷ついたり―そういうことを考えることは、一人のコミュニティを形成する人間として、理屈抜きで大切なんではないかと思っている。話が大きすぎるし、いかに、いつ、どのようなタイミングで、アクションを起こすのか、まだ模索中であるが。

人々のアクションに共鳴して、そこにヒントを見出すことは往々にしてあり、また本を読んでインスピレーションを受けることもある。人々とこうしたことを話すことで自分の思考の穴を見つけることもあるだろう。直近で、最底辺の10億人という本と、マイクロクレジットの文化人類学―中東・北アフリカにおける金融の民主化にむけて という本を読んだ。前者では、世界の最底辺の10億人がなぜその状況に置かれたかを滔々と述べ、後者では北アフリカにおけるマイクロファイナンスの可能性を淡々と分析していく。

政治にできること、資本主義にできること、両者にできないことは五万とあるはずで、反対にそれぞれにできることも五万とあるはずで、一偏にこれが解決方法だ、とか、これが世界の貧困の根本だ、という単純な話はないであろう。貧困というのから、余りにかけ離れた世界に私は生きていて、同じ言語を、同じ気持ちを共有することは簡単ではないであろう。人々の悲しみが、私の悲しみとは言い切れない現実で、しかし何とかしなくてはという気持ちはただのセンチメンタルな感情に過ぎないかもしれない。そして、最底辺とまではいかずとも、日本国内においても様々な人がいる現状に、目を向けずに、国外のまばゆい光をばかり見ようとすることは、ナイーヴすぎるであろう。

ナイーヴさを重々承知で、やはりコミュニティが、人が嬉しいことは私も嬉しいし、どうにかこうにか、その嬉しい楽しい感情を抱ける共同体を作っていく一翼になりたいし、それがライフワークになればこんなに嬉しいことはないと思う。最底辺とか、そういうのはよくわからない。できることならば、私は繊細な人間で、汚いこと、怖いこと、痛いこと、辛いことに関わりたくはない。開発がひょっとすれば胡散臭さと感じるのも、そういうことに関わりたくないという気持ちがどこかにあるからかもしれない。発想は抽象的過ぎて、問題提起はマクロすぎるのだ。そこを出発点に、やはり自身としては資本主義の力を味方に、しかしそれが当然全能的でないことを理解しつつ、さて人がまた、それ以外の方法で人がハッピーになれる方法を、次の二年間で考えたいと思う。
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by Haruka_Miki | 2008-08-14 00:00 | 経済的営み
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