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パリ発 五感の穴

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三分クッキング

相変わらずこちらは暖かですが、そろそろ鍋もの、汁物がおいしい季節です。たまにはちゃんと料理をしてみようと思ってみたりします。節約生活なため、普段は学食か、野菜をたくさん入れたパスタだとかクスクスベースの簡単料理です。その分おいしいチーズと、パンを頂きます。
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昨夜は、時間をかけたものが食べたいと思い、赤ワインに合う料理は何だろうと思って、もっと安い赤ワインを調達して、お肉を買ってきてビーフシチューを作りました。しかし、すね肉ってなんて言うんでしょう。辞書を引いていったのですが、怪しげな顔をされたので、最初のおばちゃんは、そんなのうちにないよ、とぷいと顔をそむけました。何か機嫌を損ねることを言ったかしら。2軒目の肉屋(家の前に肉屋が2軒、酒屋が2軒、八百屋もご丁寧に2軒、並んでます)のおじさんは困った顔をしつつ、大きな骨を出してきました。こ、これ?って。いやー、どうやら間違い単語だったようです。じゃいいやと、もう少しいい肉を。仏語のすね肉、何というのか分かる方、教えてください。

さて、ビーフシチューって幾通りも作り方があると思うのですが、とりあえず吾輩はキウイをのせて、ワインをひたひたにして牛肉を置いておき、くたくたになったくず野菜に入れて、まずローリエと水で煮て1時間、ワインを入れて1時間、トマト缶(好みでデミグラスソース。入れなくても十分おいしい)を入れて1時間、とにかく活字に向かっている間に弱火でとろとろ煮ておこう。最後におじゃがと人参とマッシュルームを入れて30分。で、出来上がったのがこちらです!(映像省略)。栄養取れました。ごち。沢山作ったので、これをたまに出して食べるとしましょう。パンをくりぬいて、入れて、チーズをのせてオーブンで焼いても美味です。

なんてね、こういうの、一緒に食べたいですね。ニッポンのね、大切なあなた、大切なともだちに会いたいですよ。ほんと。なんか。メールで書けることって言葉ばかりで。感情ってどうしたらパソコンのフォントで書けるのかってね。そうですよ、全く。夜な夜な語ることって、また違うじゃないですか。だから、自分の昨日の様子を、日常を描いてみたわけ。

うまく言えないけれど、たくさんの抱擁とスマイルとマスカラ落ちちゃう位の涙粒とあったか料理の雰囲気を、大切なともだちに伝えたくて。いや、それも必要ない。なんか、とりあえずそっとしておいたらいい?でもそれができるだけ器が大きくなくって。まわりでちょこまかしてしまうでしょう。もし、同じ街にいたら。
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by Haruka_Miki | 2008-10-22 00:00 |

ご無沙汰してます

書きたいことがあるのですが、引っ越ししたり、なんやかんや間があいてしまっています。しかしながら、元気です。クラスで風邪が流行っているので、私もはやりにのって風邪を引いてみましたが、精神的にすこぶるヘルシーなのでありがたい話です。また近々更新するとして、写真を一枚をば。
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by Haruka_Miki | 2008-10-21 00:00 |

コスモ

昨晩は、ちょうど私と同じ時期にパリに越してこられた日本からの友人の家で、ハウスウォーミングパーティがありました。大学の友人と集うことが多いのですが、ローカルな皆さんと話す機会というのは、大学と図書館と学食と寮の往復をしているとそこまで多いわけではなく、大変貴重なものです。13人分の料理はすべて彼と彼のお友達の手作りで、大変美味でした。

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(学校近くの道)

パリにいると、そこにはかなり強烈な小宇宙が形成されていて、現実があまりにも不思議なアウラに包まれている錯覚に陥ることがあるのですが、これは東京にいたときにも少なからず感じた感覚であり、いつかこれがただの夢で夢から覚める夢を見続けているのではと思うことがあります(酔ってないです、悪しからず)。その感覚とは、ある伝統なりを強く放つ社会に身を置くことで、世界全体で統一的なもの―私の場合、グローバル資本市場、競争社会、アメリカニズムなどを思い描くのですが―から一歩引いた社会において、感じる感覚と言えばいいのでしょうか。守られているわけではないのですが、それは思っている以上に居心地がよく、その意味で、いつか夢から覚めるのではないかというぬくもりを持った社会なのです。以前、東京について、グリーンハウスと記したのと同様な感覚を、異なる次元でこの街でも感じるのです。

これはもしかしたら、私が結局はパリに身を置きながら、非常に限られた、ローカルなもの・方達と交わる機会が少ないからかと思うことがあるのですが、その所以は今のところ定かではありません。結局は、どこまで言っても私はこの街でエトランジェであるわけですが、冷めた言い方をすれば、それは東京においても反対に感じた、ぬくもりを感じつつも、どこか日本社会に150%コミットしえない感覚(東京にいながら外資系に勤めるとかそういう話をこめてです)と同様なのかもしれません。いえ、その議題すら、一つの社会では一つの文化なり一種類の方々とだけ交わるという前提が、そもそもナンセンスなのかもしれませんが。

いずれにせよ、私の中で、環境の慣れに伴い、この小宇宙の温かさと外界にはたしてまた出られるのかという少なからずの懸念への対策として、そんなことを考えない位に、この小宇宙にどっぷり浸かってしまえばいいのだ、と日に日に考えるようになりました。その中で、大変いいご縁があり、実は近いうちに寮を出て、ローカルの女性とルームシェアをすることが決まりました。縁というのは不思議なもので、美大卒のこの女性とは、いろいろな面で似ているところがあります。馬が合う場合、そういうことは言葉でなく感じるわけで、彼女とはとてもいい共同生活ができそうです。特に、彼女は大学院が一緒なわけでもなく、どっぷりこの社会に住まう一人のアーティストであり、また勉強をする方であり、仕事をする方のようです。家は世界大戦以前に建てられたアパルトマンで、アトリエが集まり、日曜市が有名な商店街沿いにあり、窓からの眺めと、彼女のエスプリに満ちた部屋に私はただただ感嘆してしまいました。

あのアパルトマンと新しいお友達との共同生活は、小宇宙を愉しむ次なる大きなきっかけになると思います。
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by Haruka_Miki | 2008-10-11 00:00 |

白夜をコンセプトから現実にする街で学ぶこと

ゲームの意味合いをポストする以前に、怒涛の本のリストが押し寄せてきて、ペーパーの提出期限が決められたりして、その他に学校から日本語を話せる人、ということで何それのペーパーの依頼がきて、今更ながら私はやはり学生になったのだ、と納得しているところです。納得してる暇があれば、早く読んだり書いたりしなさい、という話ですが。

さて、ゲームの話は、実はこのコースのベースになる話かと思われます。まず、オセロゲームですが、これは、なかなか面白い結果になりました。当然ランダムにまずはボード上に石が置かれるので、結果は幾通りにもなりえるのですが、すべてのチームの共通点として、いずれにせよ、それぞれのチームは、最終的に同じ色が集合する形になったということです。つまりは、ボード上を眺めると、二色の差がかなり明確に見えてきます。月面ゲームですが、まず一人で考えたときよりも、ほとんどのチームにおいては、チームのメンバー(6、7人ほど)で知恵を絞った結果がより正解(NASAの解答を正解とする)に近く、ただし、クラス全体(36人)で一つの解答を出した際には、一人で考えた際よりは正解に近いけれど、チームと比較すると正解から遠のいてしまいました。

という結果がほのめかすこと、それは前者のゲームでは、ー私が住んでいたデトロイトでそうであったように―似た者同士が、似た肌の人、似た経済レベルの人、似た思想の人がより近くに住まいコミュニティを形成することを示唆しているかのようでした。そして、後者のゲームでは、人が集うことで、確かに意思決定は可能な限り最善の選択をすることができるけれど、人が多くなれば、それがどうしても難しいことを指しているようなのでした。

このゲームのメッセージ、それは相当単純なことですが、本で哲学や社会学や国関や人類学の理論を追いかけることが社会科学のメインであると考えていた私にはとても新鮮で、当然だけれど、だからこそ結構ゲームに自らが参加するという学び方は、結構響くところがありました。結局は、そのベクトルが安全保障であれ、自由貿易であれ、南北問題であれ、アーバンプランニングであれ、年金問題であれ、国境を越えた人の移動であれ、文化政策であれ、それぞれが私たち人が、集合的な存在であり続ける限り、そこに他人様のことをできる限り考え、限られた情報の中で最善の決断をすることが複雑に重なり合った結果なのです。公共政策の決定者というのが、一番理解していて然るべきことであるのでしょうが、結構この当たり前、が抜け落ちていることが多いような気がするのは私だけでしょうか。

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(リスクを取ることが好きであれ、とボンマルシェの広告。小生も甚く同感。)

話は変わって、今週末のパリでは、La nuit blanche(白夜)というイベントが市全体で行われます。土曜日の夜は夜な夜な、美術館も店もすべて開いていて、様々なインストレーション、音楽イベントが行われるというこれまた、集合的なイベントです。私も行きたいなと思っていたのですが、フランスに来て一度も観光らしいことをしていないため、今週末はディジョンに行ってみることとします。ただ、やはりLa nuit blancheに参加できないのは相当残念です。特に!さきほど地下鉄のフリーペーパーで知ったのですが、どうやらサンジェルマン教会において、なんとPatti Smithのフリーライブがあるらしいのです。これはショッキングであります。何しろ彼女は、私のアイコンの一人なので。Patti Smithをサンジェルマン教会で聴くなんて、なんて私好みなイベントなんでしょう。今夜は自身のリサーチ不足を嘆いて、枕を濡らすことにします。

パリに来たこと、それは必然であったかは分かりませんが、とりあえずこの決定をしてから、やはり身体を異なる環境に置くことで見えてくるものはたくさんあります。それは、特段どちらの環境がいいからというわけでなく、単なる「ずらし」によるものかもしれません。いずれにせよ、文化や都市計画を考える際に、パリというのは今のところとても興味深いなと思っております。

皆さまもどうぞいい週末を!
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by Haruka_Miki | 2008-10-03 00:00 |

合宿のtake home

学校の合宿でロワール地方に行ってきました。あそこは古城が有名なのですが、基本勉強合宿なので、宿泊先で講義を丸々二日行いつつ、代わりにごはんはゆっくり二時間休んでチーズとワインで話に花を咲かすというスタイルでした。
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(蜂ちゃんと花。藤色、大好きです。)

クラスメートは三十六人おり、今回の合宿で相当仲が良くなりました。インド系アメリカ人の医学生(現在medスクール休学中)、フランス人のお嬢、ギリシャ人でメキシコのNGOで働いていた子、西語ぺらぺらでビジネス畑から来たアメリカ人、都市計画専門の韓国人の人。熱い想いもあるけれど、とりあえず遊びも大切だという輩たちが多く、中でもうち数人は特に馬が合い、議論し通す、笑い通す、遊び倒す、というのを徹底的にできる仲間というのはありがたいものです。特に、音楽の話は文化圏を超えますね。あえて言うならば、カリフォルニアの野外コンサートcoachella系の輩と形容すればいいのでしょうか。そこはかとなく、学部時代の一部友人のノリをデジャヴュのように思い出します。クラスメートの中に仲良しサークルを発掘したことは今回大きな収穫だったのですが、それ以外のそれぞれのクラスメートと一様に親交を深められたことはとても大きかったのでした。

さて、合宿では、知識を詰め込むことはなく、相変わらずディスカッションスタイルで政策決定にまつわる様々なチャレンジを話し合い、合間にそれを象徴するようなゲームを取り混ぜていきました。このゲームが、非常に面白かったので記しておこうと思います。

A)オセロゲーム
①60枚の白黒の石のうち、アットランダムに20個石を取り除く。うち5個をまたランダムに置きなおす。
②この段階から、白黒の石すべてをハッピーにさせるように石を並び替える。石をハッピーにさせるには以下のルールがある。
― すべての石は、自分と異なる色の石よりも自分と同じ色の石とより多く隣り合わなくてはならない。なお、隣通しというのは上下左右、そして斜め横も含む。例:白の上下左右斜め横には、黒の石より白の石が多くなくてはならない。

B)NASA月面サバイバルゲーム
①スペースシャトルのクルーのあなたは、月面のある地点で他のクルーと落ち合うはずだったが、あいにくスペースシャトルが故障し、当初他のクルーと落ち合うはずだった場所から200マイルのところにいる。他のクルーと落ち合うために、次の15個のものを、あなたが大切だと思う順番に1から15としるしをつけなさい
②アイテムとは:酸素、コンパス、食べ物、ロープ、毛布など
③まず自身で重要度ランキングを作り、その次に周辺の数人と重要度ランキングを作り直す

それぞれのゲームの意味合いが大変興味深かったのですが、それはまた次回のポストに譲るとします。
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by Haruka_Miki | 2008-09-28 07:00 |

氏の訪問

アメリカに行ったからには、ハンバーガーを食べ、フランスに来たからにはクロックムッシューをオーダーする、というのと同じところで、政治の世界での私のステレオタイプは以下の通りです。

アメリカに行ったからには、胸に手をあててのPledge(宣誓)を空で言えるように覚える("I pledge allegiance to the flag of the United States of America..."というやつ)と同じように、フランスにいて間違いなく最初に目の当たりにする概念は、laïcité(政教分離)ではないかと思ったりしております。先代に宗教によって多くの血が流された共和国の知恵としてのlaïcité、その元ではフランス人は唯一無二の存在であり、北米のように(アメリカとプルラリズムのカナダはまた異なるとしても)エスニックグループの名前を取り入れた○○系アメリカ・カナダ人と同等の呼称/存在は、理論上フランスには存在しないのであります。みんながフランス人。そこにあえてエスニックな類分けはないのです。

さて、先週こちらに来てから、ちょうどいろいろと面白いことが起こっているようでして、上記のステレオタイプが、やはりこの国にとってとても機微な主題なのだと実感した限りです。というのも、今日からローマ法王がパリを訪問されていて、今夜のパリ市街の警察の数やなかなかでした。電車の駅によっては、電車を通過させてしまう(例えば、金曜日の夜は、ノートルダム寺院近くのサンミシェル駅を緊急に通過)徹底ぶりです。

さて、今回物議を醸しているのが、法王がただお忍びで、ないし教会に直々に赴いて政治と関係ないところでミサを設けたならばともかく、到着して直ぐ大統領と会われたとなれば、政教分離の国ではやはりかなりの議論になっています。

深い議論は専門家に譲るとして、このコミュニティの新たな構成員としての印象を申し上げると、金曜日の夜は、あちこちに土曜日のミサに備えたカトリック教徒の皆さんが紙で作った灯を片手に、街を練り歩いて法王を歓迎しているように見えました。それは、うむ、いわゆるlaïqueな国では不思議な光景であったと言わずにはいられません。

はて、政教分離を共和国の基礎とするこの国において、今回の訪問をどのように説明つけるか、大統領はlaïcité positiveという概念をどうやら持ち出しておられるですが、私には、言葉の問題だけでなく、概念としてもとんとよう分からなかったので、新聞Le Mondeの社説に、ジョスパン前仏首相の顧問の方のが載っていたので、これを一つの参考としてみます。これによると、国家が政教分離と宣言するには、まず、アプリオリに宗教の対話をすることに対して肯定的な印象を与えなくてはないし、国家は宗教的でも非宗教的でもなく、無宗教なのであり、政教分離のダイアローグ自体は肯定的でも否定的でもなく、そうした対話自体は敬意が払われて然るべき、とのような話が出ておりました(注:まだまだ私の語学力は怪しいので、心配な方はご自身で確認求む)。

どこか、自国の政教分離議論を見ているデジャヴュ感もあるのですが、当然各文化、各国特有の背景があるわけですし、フランスにおいては、やはりローマカトリック以外の宗教との兼ね合いというのがとても大きいところであろうかと思われます。それは、ユダヤ教であり、イスラム教であり、特にここ数年でヴェール問題などがメディアで取り上げられ、それが少しおさまったかと思ったこのタイミングでとなると、第三者としてもふむ?と思うのですから、ローカルにとってはかなり機微でありましょう。

と思えば、先日は、フランスにダライ・ラマ氏がいらしてたようですし、この間からイスラームではラマダーンが始まり、今週末は、ラマダーンを祝うイベントも市内で目白押しのようで、無料コンサートが行われるという広告が出ているようですから、そういうのを見ると、必ずしもキリスト教だけがlaïcité positiveでないのかもしれないと思いもしますが、それ以前に、そもそもlaïcitéの概念が、いわゆる日本語で言う「政教分離」以上の、フランス的な理論だと思うと、やはりこのlaïcitéの理論のエッセンスと乖離したところで話がなされているような印象も受けたりします。

laïcité positiveが日本で言う政教分離とどこが違うのか、もしくは元来の共和国のlaïcité原理を踏襲したものなのでしょうか。そうであるのだけれど、laïcitéの理論的効用は十分理解した上で、共和国民が、実は声高に言わないけれど、この概念にやはりどうしてもどこか無理があることを皆うすうす感じていて、大統領が言うlaïcité positiveはども胡散臭いと思いつつも、無理を何となく感じているからこそ、心のどこかでそれもありかな、と思っているのか、その辺はローカルの心の内を知らずして、何とも言えないところであります。
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by Haruka_Miki | 2008-09-13 00:00 |

永続的なるlove affair

「これって永遠のテーマじゃないかと思って。」

友達がくれたお土産は、まずはニューヨーク地図の定番NFT-Not For Tourists Guide to NEW YORK CITYの2008年版と、アンディーウォーホルの言葉の引用を入れた壁掛けだ。私も友人も、紫が好きなので、こういうベッドルームの趣味が合う。だから、友人の家に居候する場合も、我が家のようにくつろいでしまうし、あちらもあちらで気ままにやっている。
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「I wonder if it is possible to have a love affair that lasts forever」というのを指して、友達は上の発言をしたのだった。どうだろう。可能だろうか。多分可能だろう。ちなみに、love affairとは通常、情事、という意味が一般的だろうが、広くは恋愛とも言えるかと思う。けれど、それを人々が欲しようと、そうでなかろうと、love affairとして残る確立はとても微々たるものなのではないだろうか、そのはかなさに、人々は賭け、機微なところを受け入れ・楽しみ・場合によって、諦めるのかもしれない。多くの場合、そのlove affairが永遠でなかったことを、多くの人は受け止め、次なる高みに関係性を持っていこうとするんだろう。

実際先人達の歴史なるものは、仕事で何を成し遂げたとか、そういうところは当然重要であるにせよ、実は根本的に、教科書で語られぬ部分として、愛や情感が紡がれているのが、人の歴史なんではと思う。どうしても、そういうセンチメンタルな部分で、歴史を読むと、この年号に何が起きて、というところ以外のその歴史上の人物を彩る周りの情の歴史に関心が及んでしまう。そんな情の歴史の教科書があれば、私はかなり没頭するだろうな。

さて、そうした融通が利かない場合は、本件が永続的でないことを認め嘆きつつ、次なるlove affairを模索し続けている人もいるのであろう。それを可能にする社会風土があり、時代や場所によって変化をしていくものなのであろう。

パッションから始まる関係、落ち着きや居心地のよさから発展する関係、苦手意識がいつしか恋心に変わる関係、色々あるのだろうし、ああ情愛とはなんと繊細で面倒で心地よく心地悪いものなのだろう。それは、生を授かったものとして、プログラムされたものなのか。人として生きられるということは、すなわちこの情を感じられることなのであろうか。だとしたら、面倒くさくても享受したい。何だかんだ言って、それは大層素敵で美しくヨハンシュトラウスも真っ青にはかないものだからだ。一人で気ままに生きる楽さとわびしさ、人と連れ添う温かみと忍耐さ、それはいずれもそれぞれのよさがあり、何が良い、悪いではなく、ただただ、c'est la vieなのである。
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(完全にlove affairモードが抜けきった姫)
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by Haruka_Miki | 2008-08-22 00:00 |

父さんと語る

聞いてくれて、受け止めて、時に優しく、時に現実的に、叱咤し、激励する、そういう親業を、私もいつかできる日がくるのだろうか。

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父が来日していたので、これからのこと、私のこと、妹のこと、両親のこと、色々と語った。父と夕飯を食べる日、父は、よし今日は思いっきり語るぞ、語りつくすぞ、と言った。父親というのは、母親に比べるとどうしても一緒に時を過ごす時間が少なくて、向かい合うよりも、背中を見て習え、といった側面が往々にしてある気がする。そのリエゾン役となるのは、大抵母親であり、父とは仲はよくても、一緒に過ごす絶対的な時間では、母には敵わない。

だから、今こうしてしっかり向き合ってくれること、話を200%するまで眠らないぞ、位の意気込みはとても新鮮だ。

通常、父は、多くを語らない。たいがいは、母と私が間を入れずに喋り通し、妹と父はすばらしい聞き手に徹する。語らずに、しかし口を開いた時の言葉は重い。家族の平和と幸せと沢山の笑顔を望んでいる。娘に、私たちなりの道を進んでほしい、それを最大限にサポートするから、娘達自身には目をそらすことなく、自分のハッピーを突き進んでほしいと願っている。それは、私自身の希望であるし、父の希望もまたそれと同じであると知ると、熱い気持ちになるのは当然のことであろう。

我が家には、息子なる存在がいない。娘だけなので、多分娘を持つ父さんならではの期待や楽しみや内なる想いがあるかもしれない。息子と娘で親として何が違うか見当もつかないが、どこかで、私は、そんな家族構成で男勝りに突き進もう、いや、男の子以上にはっちゃけていこう、という気負いを持って生きている。

最近仲良くさせてもらっている同僚もまた、6歳児のお父さんで、彼と娘さんの話を聞くのは相当楽しい。同僚は、娘さん(と2歳の息子さん)のことを、「面白いやつ」とか「いいやつ」と必ず相棒のような呼び方をする。それは、家父長制な父親の威厳を振りかざすとかでなく、相棒たちの成長を一方的に見守るのではなく、目じりを下げつつ一緒になって成長していこうという同僚の父親業に対する姿勢と哲学の顕われなのだと思う。彼が話す「相棒」たちの話は、大層面白く、豊かな世界観で、私はその話を聞くだけでも、胸がいっぱいになる。

様々な形で父親という存在があり、その受け止め方、自身の表し方も一様ではないのであり、父は結局は一人の人であり、一人の夫であり、一人の上司であり、元々は一人の部下であり、一人の音楽好きの青年であったわけだろう。最近、父親の存在は、よりはっきりした輪郭を帯びてきており、それは、もしかしたら、父がまた娘の私に対してもまた、ここにきて「話せるやつ」と言った具合に同様に感じていることかもしれないし、もしくは父が、私が6歳児の頃から父が私に感じてきたことを、私がやっと今になって理解し始めているか、いずれなのかなと思う。
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by Haruka_Miki | 2008-08-09 00:00 |

美しい文章を書く人

言葉って、とても力強い。そう思う今日この頃です。同じことを言うのでも、人によって幾通りもの言い方があり、それがその人の為りを映し出し、ある時は覆い隠し、ある部分を強調しもします。言葉遣いに感銘を受ける友人は数人いるわけで、私はこっそりその人たちとお話する機会や文章のやり取りをする機会があると、彼ら・彼女らの言葉をかみ締めるために何度も言葉遣いを頭の中で復唱していたりします。

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(ヌメアの洋品店にて)

さて、友人とはまた異なる出会い方で、そうとあることから知り合った人の、言葉遣いにはいつもほれぼれします。それは、以前お話したニューカレドニアに旅人として舞い降りた際に出会ったピザ職人。テクノロジーの恩恵にあやかり、今でもたまにオンラインで話をするのですが、今日極めて久しぶりに近況報告をし合う機会がありました。この人の言葉遣いは、とてもらしくていつも言葉を受け取ってはその余韻に浸るというものです。

いずれにせよ、面白いのが、これが日本語=私の母語であれば、もしくは英語=それなりに精通している言語であれば、言葉の美しさやバランスの良さを受け止めるだけの土壌が自身にもあるというものですが、この友人はフランス語で私に話しかけてくるわけですから、上記のような言葉遣いのひだの部分まで当然分からぬ私が、どうしてそこまで、まだ勉強途中の言語に対して感銘を受けられるのか、という誠に正論な疑問まで湧きあがってきます。しかし、自身がこの職人ほどの語学力を持っていなくても、何か美しい文章に触れたとき、言葉の選択の繊細さを感じるのは、字面ではなく、全体的なものから出るニュアンスであり、そこに思慮深さや人の欲なり弱さなりを散りばめた、その危うさや活き活きとした様子は、語学力に関係なく、いいものはいいとすっと分かるような気がするのです。

その職人ですが、彼が大学に行ったと言っていた記憶はありません。ですが、私が知りうるフランコフォン(サンプルは当然多くはありませんが)の中で一番、この彼は美しい文章を書きますし、彼自身を投影していることがありありと分かり、なるほどそこに職人らしさが随所に現れているのです。学があるというのは、時に形骸化すらしている学位ではなく、こうしたナイーヴなまでもの細やかな言葉遣いができるそのデリケートさや、何かを熱く感じ、それを受け止められるような情熱さと穏やかさのバランスであり、この短い間にできた友人はまさにそれを持っているからこそ、氏が記すメッセージは実に美しいのだと思うのです。

もちろん、言葉遣いはメッセージの表部分であり、結局この友人は短い期間ながら、馬が合って心をさらけだして色々を話してくれているから、ほれぼれする言葉自体は、選ばれし言葉たちが彩りを添え、ただただ職人の内面的な豊かさを紹介するのに一役買っているだけなのでしょう。
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by Haruka_Miki | 2008-07-29 00:00 |

語る。新しい出会いをする。

もう既に参加者を知っているようなclosedな関係の中での会は、元来好きです。気心が知れた少人数というのは、色々な話をする上で最適だったりしますし。こうした仲良しこよしをもてることは、とても素敵で平和で尊いことをお伝えしながら、時に新しい出会いにつなげていく会があると、それはそれでとてもありがたい機会です。
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(アトランタの空港にて)

ここのところ友人の紹介でいくつかの会、また新たなサシでのご飯等に参加して、それぞれとても面白かったのですが、発見は、必ずしも自身がclosedな関係以外は臆病になってしまうだけでなく、そうした新しい出会いも異なる楽しみがあるということです。そして、今も昔も、ですが、この新しい出会いには共通の友人があったり、共通項があったりで、また次なるネットワークが構成され、次なる友達の輪が自分が望むだけずっとずっと続いていくんだと思います。その輪を拡げるも、現状維持するも、狭めるも自分次第。贅沢にも、輪も拡げたいし、新たな出会いはできるだけ掘り下げたい、もちろんその前に気心が知れた相手とはもっともっと沢山の経験や思いを共有したい、そう願うのです。

一つの会は、とある会社の新しい香水のプロモーションのための集いで、ゆうめいじん(ジャノメじゃないよ)が沢山いて、珍しい会だったのですが、メディアの中での人、も当然ながら普通に生きているのであり、メディアを通じて知ったのが最初である場合、その出会いは当然超現実的です。ブログを読んでいるプロスケーターの方がおられたので、話をしましたが、最近起業したことなどを聞いていて、当然のことながらああ、そうなのだ、普通に私に心地よいものがあったり、熱い想いがあるのだ、と私が日々友人と交わすのと同じような話ができたり、色彩が豊かすぎてあまり凝視したくない世界、シューリアルな世界の住人がすっと現実味を帯びるのです。

これはメディアの中の人に限ったことでなく、同僚の方だとかに関しても言えて、話して初めて見えてくるものや発見することが沢山あるわけで、その方と共通項を見つけて、異なる部分を認めて、その異なる部分を貪欲に知ろうとするとまた沢山発見があって、自分も刺激を受けます。超現実的な世界がまぶしすぎるのだとしたら、日常というのはあまりに色に乏しく、そこに絶句したり不平を垂れたりする危険を沢山帯びているのですが、実はそれは自分が膜を張っているだけの話で、話をして、日常という膜が破られやっと現実味が増すというものです。

昨夜の会で連れて行って頂いた店の南インド料理があまりに美味しく、会話もすこぶる軽快で愉しかったのですが、そこについてはまたの機会にして、私も新たな出会いを他の方に提供できるようにリエゾン役を買って出る機会を作りたいと思います。もちろん、気の置けない相手との時間は何ものにも変え難いんですがね。オープンソサエティがそうした古くからの関係をまた刺激してくれる気がする今朝です。
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by Haruka_Miki | 2008-07-25 00:00 |