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パリ発 五感の穴

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カテゴリ:五感( 62 )

お話しのシンボル

通勤の時に歩く道々では様々な動物その他に出くわす。私にとってはとてもありがたい。昔は、ムツゴロウ王国に就職するかカウガールになる(そういう職業が日本に存在するのかな?)と信じて疑わなかったので、動物というのは好きな方かと思う。
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(Peru, 山のどこか 2005)

たいがいは散歩中の犬、野良猫なわけだが、特に目立つ存在はカラスである。近所に大きな公園があるためおそらく寝床にしているというのが一つの理由だけど、それ以外にはやはり朝のゴミ捨て場に目を光らせ沢山の彼らを見かける。いつもこの上ない存在感のくちばしを突き出し、漆黒の羽をばさばさやっている。歩道を低空飛行したりするからちょっと困る。ゴミをつつく仕草からも、相当高度な知能をお持ちのようである。子供だったら傷を負わせられそうな威圧感で朝の道々を闊歩している。

もちろん、カラスも個性は十人十色のようで、トンマなのもいる。最近同じ道を歩いていて少なくとも四度はその姿を見かけたのは、ザ・自転車の座席を食べるカラスである。正確に言えば、いつもある建物の前に、同じ自転車が置かれているわけだが、座席部分を覆うビニール袋を必死に食べて(つついて?)いるのだ。つつくと穴が開くから、自転車の持ち主がまたビニール袋を新しくするようだ。だから、カラスは元の木阿弥でまた一からビニール袋をつついている。今朝も見かけたから、多分同じカラスだ。おかしなカラスだなぁと最初二回ほど見たときはあまり気にせず思ったのだが、やはり四度となると相当シュールで私のツボをついている。ツボを押さえた出来たカラスである。いや、、カラスも四度同じ人間に目撃されているとは気づいてないはず。もしくは確信犯?

さて、私にとっては(おそらく私だけ)そのカラスの光景が少しデジャヴュに感じられる映画を観た。Dairaさんにすすめられたユーゴスラビアの映画、「白猫黒猫」である。氏は映画通と見え、かつこの地域への造詣が深くてらっしゃるため、その意味でもかなり観る前から期待をしていたのだが、期待以上に底抜けにおかしな作品で、相当幸せな気分になって、映画たるはこうじゃなくちゃという余韻が残った。

お話はとかく直接観るに限るわけだが、この作品では二つの動物が話の折々に映し出される。まずは白猫と黒猫、そして豚である。ちなみに作品の内容に触れるようで申し訳ないのだが、大勢に影響はないと思うので申し上げると、豚はいつも廃車をぶひぶひ言いながら食しているシーンで登場する。(これと前述のカラスが私には重なって仕方がなかったわけだ)

映画と違い、普段の生活というのは基本的にシンボリックな存在だとか、メタフォーを擁する存在というのがそこまで存在し得ず、ナレーターもいなければ、客観的な目線もなく自分を「生きる」のだけど、どうもその「自分を自分で生きる」という目線以外に、そんなシンボリックな存在が在る・居るのだろうか。ま、仮にそのようなシンボルが私達の生活にも存在したところで、だからと言って、例えば自転車の座席をついばむカラスがどんな存在か知る由もない。
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by Haruka_Miki | 2007-12-04 00:00 | 五感

言語、それ以上

アンダーワールドのライブに足を運びました。人が沢山いるところに行くのが億劫な性質ですが、週末〆切で目処をつけたかった課題も上がったので、出かけることに。こういうのは、音楽が大好きな中学時代の友達Kちゃんの十八番。音楽フェスティバル系統のものではチケットの手配から当日のことまで任せっきりで、いつも抜群にいいタイミングで声をかけてくれます。ありがたいなあ。あいにく、私は彼らの2002年以降の曲はよく分からないので、Trainspottingで使われていたBorn SlippyやRez、Cowgirlが非常に懐かしく。

こういうイベントに行くと、私の場合、とかくビジュアルエイドに目が行きます。大きな画面で、曲の合間合間に入る映像。強烈なブリティッシュ英語で語りかける男性。男性の声は聞こえにくいので、映像の下には字幕。日本の公演には関係なく、英語の字幕が入ります。その意味を聴衆の全員が分かっているか。多分皆完全には字を追えないのです。しかし、それぞれの聴衆が十分何かを感じ取っているはずです。

話しは変わりますが、日本人の作家の本を、外国人の友人にあげるということになり、永井荷風の「墨東奇譚」の訳本がそのうちの一つでした。サイデンスティッカー先生の訳です。人にプレゼントをしてから、自身も英語版をちらっと読んでみたのですが、大先生に向かって不仕付けは承知で言ってしまうと、どうも違うのです。あの永井荷風の語り口調、噺家の訓練を積んだり、とかく印象的な文語の口調は、英語には置き換えにくいのでしょうか。

本をあげた友人は、仕事の合間に趣味でクリエイティブライティングのクラスを受講していて、授業のうち一つとても面白かったトレーニングについて教えてくれました。それは、何語でもいいから、自分が全く知らない言語の詩をインターネットなどで見つけてきて、辞書は使わず、雰囲気を感じ取り、訳をしてみるというものです。頼るのは、自身のインスピレーションのみ。これが案外当たるんだそうだから不思議です。辞書も使っていないのに!

異文化との出会いが多くなる分だけ、言語のバリアを感じる場面も自ずと増えると思うのですが、そもそも言語の前提となる文化がまた多様なら、互換性を考えるのもさっさと諦めて、その文化をどっぷり心で聞いてしまえくらいの心意気がありなのかもしれません。

言葉の奥深さを感じると、それ以外の手段、それが映像なり音なり、肌触りなり、香りなり、もうそのレベルでの言語はよっぽどストレート。昨夜のイベントなども、音楽や映像を通じて、あれだけの多くの聴衆を熱狂させるわけです。第三者の媒介人も必要ありません。

その中で、翻訳というのが、実際にはとてつもなく難しいことだと最近思います。自身が感じたことを他の言葉で書いてみて、母語で言いたいことと、他の言語で言えることの範囲が違うということに対する消化不良を感じるのとは全く違う種類の困難です。

趣味で翻訳の勉強をしてみたいのですが、その前に前出のクリエイティブライティングの授業を受けるのもありかと今思案中です。

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(写真の小学生達は、その後通りすがったおばあちゃまに細かく道を教えてあげていて、よいこでした。)
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by Haruka_Miki | 2007-11-24 00:00 | 五感

Religional Economics

「宗教と経済」というのが、私が学生時代に好き好んでいたテーマであります。

しばしば、「政治と宗教」は一つのコンテクストで話されることが多いと思うのですが、経済体系が、社会的要素によってある程度色づけられているのであれば、その要素の一つである宗教と経済の関係は切っても切れないと思うんです。

原理主義的マルクス主義、共産主義の国での宗教の弾圧。イスラエルのキブツと労働シオニズム。プロテスタンティズムと資本主義。細かいところで、アメリカドルのプロビデンスの目の意味と背景。

経済的営みって、数式だけじゃわからない。だからこういうトピックが面白いなと思うのです。そして、手前味噌ですがイスラム金融です。3年前ではその世界の人にしか関心をもたれていなかったイスラム金融ですが、今では次なるターゲットと言わんばかりに、イスラム教徒の数が極めて少ない日本でさえも、様々な取り組みが行われようとしています。まさに、宗教ありきのビジネスが今、多々産声をあげようとしているのです。というわけで、19日の日本経済金融新聞の記事は面白いので抜粋します。

『アトラス、リース方式で、不動産投資、イスラム金融を活用。
(日経金融新聞 1面 2007/11/19)

不動産ファンド運営のアトラス・パートナーズ(東京・千代田、平井幹久社長)は、イスラム法に基づく「イスラム金融」を活用して国内不動産に投資する枠組みを開発した。イスラム金融は融資で金利を得る行為を認めていないため、特別目的会社(SPC)が不動産をリースする方式とした。中東のオイルマネーを呼び込む手段として注目を集めそうだ。

 イスラム金融は、イスラム法・シャリアにのっとった金融取引の総称。金利の概念を用いない、豚肉やアルコールなどイスラム法に反する事業と取引しないなどの特徴がある。マレーシアやバーレーン、ドバイなどが取引の中心で英国やシンガポールも環境整備に動いている。日本は銀行法上の制約があるため本格化していない。

 アトラス社はイスラム金融による投資案件の第一弾として、都内の不動産三件を四十三億八千万円で取得。クウェートのブービヤン・バンクが運営するイスラム法に準拠した不動産投資ファンド、ブービヤン・グローバル・リアル・エステート・ファンドが投資した。投資額は明らかにしないが、不動産取得額の四分の一程度とみられる。

 今回の枠組みは二つのSPCを使う。まず第一のSPCが不動産を購入し、第二のSPCに対してその不動産をリースする。ブービヤンは第二SPCに対して投資、第二SPCは第一SPCに対してリース料を払う。ブービヤンが直接取引関係をもつ第二SPCはモノの貸与に裏打ちされたリース取引をしているので、イスラム法上の問題は生じないという。

 今回の案件には、欧州でイスラム金融の実績がある独系ハイポ・リアル・エステート・グループがノウハウを提供した。日本子会社のハイポ・リアル・エステート・キャピタル・ジャパン(東京・千代田)が第一SPC向けに資金提供し、ブービヤンが投資した総額を上回る高額不動産の購入を可能にした。

 アトラス社は第二SPCを通じて不動産の賃貸業務や五年後をメドの売却管理を担当する。家賃収入や売却収入で最終的には年率一〇%を超す投資利回りが期待できると説明している。』

資本主義が宗教を次なるターゲットとして取り込んだのか。はたまた宗教が資本主義さえも取り込んでしまったのか。機会か脅威か。
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by Haruka_Miki | 2007-11-19 00:00 | 五感

新聞のこと

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新聞を読んでいたら、存じている名前がいくつか混じっていた。あることに気が付いた。記事は文字の羅列でなく、それぞれの記者の個性を含む。けれど、たいがいこの個性は秘められ、誰も気づかなくなるまで浄化され、システマチックに配置される。これがとても苦手であった。

大学時代に新聞社の編集局でデスクや記者の小間使いのバイトをしていた時のことである。当時、東京の外信部づけだった数名の記者の方が、今は特派員をされている。外信部は、海外特派員として送り出される前の下積み期間でもあり、特派員を経験して帰国したデスク達の日本での拠点でもある。

デスクがいて、デスク達はそれぞれ専門の担当地域がある。その専門性をふまえて、それぞれ担当の日には、国際面の紙面を取り仕切る。何となく、その日の担当デスクによってレイアウトが異なる。選ばれる記事も異なる。十一時前に記事が決められ、レイアウトが決められ、校正に出され、第一版が刷られ、各部署のデスクが真ん中の大きな白いテーブルに集まってああだこうだとやる。これが第四版まで続く。首都圏から遠い順に、若い番号の版の新聞が印刷され配られる。首都圏に近いほど、直近のアップデートを経た新聞を手にする。

新聞をめくると、記事がとても効率的に紙面に収められ、紙面いっぱいに言葉が埋められている。匿名性は、ニュースを遠い世界の存在にする。すごくすごく遠い。だから、新聞が何となくいやになった。購読しない時期も続いた。一ヶ月前から購読を再開した。記者の名前を見て、その記事が生身の人間によって書かれたものだと再認識する。それが時に、いつだかお世話になった人の名前ならなお更、新聞が5W2Hだけのただの言葉の羅列でなくて、どういう風に取材したのか、やっとリアリティを持つ。

遠のいたから気づいた。記事とはこんなにも人間的なものなのだ。だから逆に怖いのだ。だからシステマチックに、個人の情緒や個性はできるだけ秘められてしまうのだ。秘めると同時に、社の方針は、じわりじわりと反映された文章が紙面を埋める。

近年、様々な媒体ができ、マスメディアの一方通行の時代は終わった。私もあなたも発信できる時代になった。それが可能になった。もはや個性を覆い隠す組織もない。そして、新聞の記名記事のように実名を語らなくても発言が可能となった。このブログがその状況を端的に示す。そこに、デスクもいない。校正係りもいない。刷り直しも自身が望まなければ必要ない。情報は方々に散らばり、氾濫し得る。

記事のモノトーンさが苦手だ。事実の羅列というのに胡散臭さを思う。編集というプロセスの客観性に疑問を思う。だけど、これだけ様々な媒体ができた現在だからこそ、新聞の記事は今まで以上に重要なミッションを持つようになったようにもおもう。苦手な中に、記名記事という個人を見出し、記事のリアリティをそれなりに理解し、そして今、記事で苦手だと思っていた点の良さも大切さもなんとなく分かるのだ。
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by Haruka_Miki | 2007-11-13 00:00 | 五感

風邪気味の時は詩に限る

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(At the Cathedoral in Toulouse, France, 2004)

微熱が何日か続いて、ふらふらしていた。高熱でないので、汗もかくけれど、すこーんと次の日に回復するほど熱が出きらないというのは不完全燃焼である。解熱剤てのはもってのほか。葛根湯を飲んで身体を温めても、アクエリアスを飲んでも、どうもよくならないので、土日はおとなしくするかということで寝てみた。

というからだの具合は置いておいて、私はこういう風邪気味というのが嫌なのだけど嫌いではない。なんとなく、風邪を引いたときって、集中散漫の割りに、普段の自分では気にならないことが気になったりしません?私の場合、風邪の時は短いパンチが効いたものを欲するので、そうなると、詩にむくむくと興味が湧いてくる。おそらく、長い読み物を読む気力がないのと、ある意味でいつもよりも想像力に富んでいるからかと思われる。

今日は、高校時代に読んだRobert Frostの詩が急に頭に浮かんで、早速ネットで検索。以下、Harvard Square Libraryより抜粋。

THE ROAD NOT TAKEN

Two roads diverged in a yellow wood,
And sorry I could not travel both
And be one traveler, long I stood
And looked down one as far as I could
To where it bent in the undergrowth;

Then took the other, as just as fair,
And having perhaps the better claim
Because it was grassy and wanted wear;
Though as for that, the passing there
Had worn them really about the same,

And both that morning equally lay
In leaves no step had trodden black.
Oh, I marked the first for another day!
Yet knowing how way leads on to way
I doubted if I should ever come back.

I shall be telling this with a sigh
Somewhere ages and ages hence:
Two roads diverged in a wood, and I,
I took the one less traveled by,
And that has made all the difference.

Robert Frost (1874–1963). Mountain Interval. 1920

爽やかなRobert Frostの詩が、こういうときにとても心地よい。また長い読み物が読めるように早く回復することを望みつつ、なんとなくこの詩のモードも悪くないと思いつつ。
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by Haruka_Miki | 2007-08-26 00:00 | 五感

日向ぼっこ

天気がいいと必ずリネン・枕・クッション関係を太陽に近いところに置いておくのだが、今朝はいつにも増して、皆さまが気持ちよさそうなのは、気のせい?
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by Haruka_Miki | 2007-08-12 00:00 | 五感

ポルトガル語、時々レモネード

言語って、響きが綺麗な言語だとか、感性が美しい言語だとか、あとは色々な用途によって(フランス語は愛の言葉というclichéがあるように)色々あると思うのだが、私が一番音楽的に受け取ってしまうのは、多分ポルトガル語である。

ポルトガル語はまったく分からない。けれど、なんとも人間的かつ音楽的だなーと思わずにはいられないので、耳にする機会があるととにかく惚れ惚れしてしまう。東京でもポルトガル語を話している人々を見ると、私はとりあえず近くまで歩み寄って行って、盗み聞きしている。意味が分からないので、盗み聞きもかわいいもんだとお許し頂きたい。

言語と音楽というのは本当に鶏と卵の関係だと思う。というわけで、ポルトガル語の音楽は心地よい。ポルトガルを二週間ほどさまよい歩いていたときの記憶が残っているからか、ファドが好きなのだ。あれは、多分日本でいう演歌的なものなのだけど、心地よい。大学都市のコインブラの近くにナザレという漁師の村があって、そこを思い出す。おばあちゃん達が黒かったり、鮮やかな色だったりのエプロンをまとい、なんとなく自身は行ったことがないが、妹が以前旅をして写真を見せてくれたギリシャの島に似た感じである。
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ボサノヴァも好む。あれを聴くととりあえず、この夏の週末、昼下がりならば家に埋もれているハンモックを探し出し、きーんと冷えたレモネードだかをバスケットに入れて、公園に木綿だか麻のスカートでもはいて、ビーチサンダルを投げ出して、ハンモックをいい具合に吊るしたら、すぐさま昼寝の体制に入れる気がする。

このたび、ミッドタウンにビルボードライブがオープンするらしい。カルロス・リラとホベルト・メネスカルがやってくるとのことなので、ぜひ足を運びたい。一点残念なのは、彼らがくるのは10月とのこと。どうせならこの真夏の夜にシエスタをした後にでも夏のおめかしして行きたいものである。
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by Haruka_Miki | 2007-08-10 00:00 | 五感

夜景を見る目

f0079502_23201382.jpg私の弱点の一つに、夜景恐怖症というのがある。正確には、夜景不安症とでも申せようか。そして、昨日何をしたかといえば、友人と大変楽しい時間を過ごし、その夜景恐怖症を克服したとお伝えしたい。さっぱり意味が分からないだろうけれど、分かっていただけるように努める。

大学の盟友Y氏に、「百万ペソの笑顔」とキャッチコピーつきで称されたことはあっても、私は総じて夜景というものにひっくりかえるような感動を覚えた記憶はなく、「百万ドルの夜景」という言葉でさえ、そこにロマンを抱くというよりは、いつぞやの香港の夜景は電気消費量が百万ドルなのかという風に見てみる性質である。ロマンがないと嘆かれれば、言い訳をお伝えしよう。そういうわけではないのよ、ただ、色々考えてしまうからなんだよと。自身も分からぬが、多分形のないある種の恐怖を夜景に抱いてしまうのである。まずは夜の暗闇に、子供が持つそれと同じ類の怖れを抱いているのだが、その暗闇の中の夜景を作る、点々の一つ一つに色々な人生が宿っていて、それが東京都民1300万人分キラキラまばゆく光っていると思うと、夜景の光一つ一つに、沢山のストーリーがあるのだと想像し始めてしまうのだ。もうこうなると、わーきれいー、だけでは済まされない。空想家というのは困ったものだ。

さて、そんな前置きを覆すくらい、連休に行った夜のお台場は、雨もひいて夜景がとても綺麗だった。橋がきらりひらめいたり、ビルが煌き、海に浮かんだ何艘もの屋形船が彩りを添える。素直に綺麗である。こういう場所に共だってくれたことに感謝なのだ。

夜景の綺麗さに加え、その夕飯での話題がパンチが効いていた。夜景がきらめいて、様々な人々の人生が東京湾のあちら側で起こっている間に、私達友人らは国境線の直線のことだとか、旧ソ連のことだとか、なんだかんだと話を進めて、もはや話は夜景の点々を作る東京都民の域を超えて、中央アジアの話に及んだ。この話というのが大変興味深いもので、また機会を改めて設けたい。とりあえず、なんというか私は中央アジアや旧ソ連や国境線の話をするうちに、不思議にも夜景恐怖症を何となく克服したのである。克服したとは言っても、少し遠い世界の話に妙なリアリティを感じ、夜景のリアリティを感じないというのはどうしたことか。

おそらくは、私が持つ夜景恐怖症は、その基本に夜景を見る距離感があるかなと思う。いくら東京都で、いくら距離もさほど遠くはなくて、私の目でたった今見ている夜景でも、それは第三者の目なのである。遠目にいて、きれいだなぁと遠巻きに観察する目。夜景は、遠くにいるから夜景であって、自分がその街の雑踏に入れば、もはや夜景ではなくなってしまうだろう。

中央アジアの話も、国境線の話も、実際ぴんときにくい話なのだが、その地を直に知る人と話をすると、急にリアリティを持って私に迫ってくる。その中でも自分が少しでも旅をした場所であれば、なおさらだ。そんな中で、もはや視覚的な距離感と、精神的な距離感と、距離感なんてのはもはや実質的な距離感ではないようだった。その距離感に、何らかの寂しさを感じるのかなと、今自分の気持ちを考えてみる。

なんて、色々と言ったので、今度からあの人と夜景の近くには行かないようにしよう、なんておっしゃらずに、今後もどうぞみなさまお付き合いくださいませ。
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by Haruka_Miki | 2007-07-17 00:00 | 五感

ネイチャー

ゴールデンウィーク明けの火曜日です。ゴールデンウィークぼけをなおす気があるのかないのかは置いておいて、日々の仕事をしつつ、こんなことを考えています。こんなことというのは、自然と人間のことです。

先週見に行ったレオナルド・ダ・ヴィンチの特別展ではないですが、自然界のかたちに出会うとき、そこに人間が企画し得ない、とらえどころのない自然界の力を感じます。

現代人として、スマートにオフィスで仕事をこなし、なんとも高度なことをしているような錯覚に陥りますが、私はその辺を斜に構えた人間なので、発展は所詮ある一定の分野での後退であると考えてしまいます。

そして今、大学の卒業旅行で行ったペルーのアマゾン川の風景を思い出します。そこにあるひかりや影、静けさやうねりは、はかなくも力強く美しいものでした。さて、高度化した私達人間ですが、このような自然の風景を人間だけで作り出せるかと言えば、なかなか難しい気も致します。そのような考えは人間のエゴでしかなく、自然には所詮敵わないとさえ思ってしまいます。
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仕事しつつ、いつになく、だいぶ末期症状な考えに入り込んでいるのでした。
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by Haruka_Miki | 2007-05-08 00:00 | 五感

ダーツ考

土曜日に、たらふくお夕飯を食した後、ダーツをしに出かけた。ダーツをするのは二回目である。腕前は、スコア100も出せないボーリングに比べれば随分とよく、私が小学生時代はいつもやっていた、が、おそらく日本国民の殆どは知らない「小林一茶かるた」ほどは得意ではない位である。例えがよく分からないというお叱りは全うであろうが、少しはその程度を察しては頂けるだろうか。要はまあ可も無く、不可もなくという話だ。

さて、ダーツというのは、これはなんとも奥深い。それなら弓道の方がという声も聞こえてきそうだが、的を射るという行為はどうも奥義を極めるとなると並大抵のことではあるまい。一点目指して射ればいいだけというシンプルさと、その目的を遂行するために必要な腕前、それ以上の精神面が必要となるわけである。

私は、元来計画性があまりない人間であり、ぶっつけ本番でとりあえずやってみようという無鉄砲さを売りにする、もしくはするしかないタイプの人間である。これが、案外吉と出るから不思議だ。どこを見つめながら的を目指すのか分かりかねるため、えいやと投げてみれば、これが案外ドンピシャの場所を射るので、人生何があるかは分からぬ。

ダーツをしながら思い出すのは、イヴォン・シュイナードが彼の著書で繰り返し唱える以下の点である。「弓道であれ何であれ、禅における手順では、いったん目標を見極めた上で、その目標を頭から消し、過程に精神を集中させるのだ。」

ダーツというお手軽な遊びに際して、禅語まで思い浮かべられるとは何とも充実して一石二鳥な休日の夜だった。
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by Haruka_Miki | 2007-04-24 00:00 | 五感