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パリ発 五感の穴

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カテゴリ:五感( 62 )

嘘をついてもいい日

正直に真っ直ぐ、誠心誠意人と向かい合いなさい、と親の躾以前の問題として、私はそのような姿の美しさを自然と理解し、嘘をつくこと、ものを盗むこと、暴力を振るうことという類の言動の愚かさは、いけないこととして暗黙の了解のうちに教えられた。教えられた、というよりは、友達と交流を深めたり、祖母を気遣ったり、家族で生活をする中で、ごく自然に身につくものかもしれない。何も私が麗しい人間なのではなく、大抵こうした所作を人は道徳として、身につける。

人間なので嘘をついたことがないとは言わない。実際、小学生のころ、落し物のブルマーを見て、「やだー、誰ブルマーなんて落としたの」と大声で言っておきながら、実際は自分のものだったとか、理科で悪い点数を取ったのだけれど、「テストはなかったよ」などといいながら、机の後ろに丸めて捨てておくとか、そういう体たらくな嘘なら随分とついた。

私の嘘を思い返せば、その多くは少々お頭が弱いというか、呆れてくすっと笑ってしまうタイプの嘘が多い。それは、よく言えば「嘘がつけない人」ということになるし、悪く言えば「小心者で大人じゃない」とも言えるのかもしれない。大体、嘘をついているというどきどき感は顔に出るし、声も変わってしまうし、はっきりいって、ばればれという場面が多い。

そんな私が、ちょうどおととい時計の針が変わった頃に、日付けに気がついた。カレンダーに目をふとやれば、4月1日。巷で言うエイプリルフールだ。これはこれは、と私はにやけた。いつもは、嘘をついてもなかなか上手くいかない。けれど、こんな日なら、一世一代の名演技の一つもできるってもんだろう。小心者にとって都合がいいのは、「嘘をついてもいい日」という世界的な基準、人々の了解があることだ。世界の道徳観も何もひっくり返す一大事だ。

ちょうど、インターネット上でお喋りをしていた友に平気でおかしな嘘をついてみた。随分とこっけいでびっくりするタイプの嘘だった。それは、映画・アメリの一場面にも似ていた。ある日、スーパーに買い物に行ったわ、と同じトーンで重大な問題を打ち明けるようなものだ。彼の沈黙の長さったらなかった。困り果てて、どう返答するものか考えているのが画面を通して伝わった。けれど、ネットの良さといえば、そんな彼の様子を見て動揺した自分をさらけだすこともないのだ。

人間、なぜ「○○していいよ」と言われると、いとも簡単にそのモラルが低下するのだろう。いつもならば、絶対につかないような嘘をペラペラと口にしても平気なのだ。

そこで考えてみた。もしも、365日のうち、364日が「嘘をついてはいけない日」と銘打ったらどうなのだろう。不思議の国のアリスの「お誕生日じゃない日おめでとう」のように。こうなると大変だ。特別な日と特別でない日が逆転して、特別の日の意味合いが変わる。世界が新しいスタンダードで、364日「嘘をついてはいけない日」を声高にいったら、人々はうんざりしてしまうのかも。

1年でたった一度、しかも合理的理由もなく、「嘘をついてもいいよ」と言われるから、世の中の道徳や共通の理解を完全に覆す理屈の日が、突然一日設定されてしまったから、人々はなんだかおかしな、こそばゆい気持ちになる。

いつもは当たり前なことを、180度変えてみる。すると、当たり前、と自分が思い込んできたものが、実は当たり前でないのかも、と思う。それが不道徳なものでも、どこかで自分に甘えがあるから、そんな怠惰な状況を享受しようとしてしまう。私も、いたずらの精神をめきめき発揮して、今年のエイプリルフールは大成功だった。

そんな風に嘘を思い切り楽しんだ後は、きっと、たぶん、おそらく、しばらくは嘘はつくまい。少なくとも性質が悪い嘘は、あと1年はお腹いっぱいだ。「嘘をついていい日」という前向きな日は、「嘘をついてはいけない日」という否定的な日よりもインパクト大で、結果的には嘘をつきたくなる人は案外少なくなるのかもしれない。
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by Haruka_Miki | 2006-04-03 00:00 | 五感

そのほっぺにあるもの

いつもと同じ朝だ。朝起きて寝ぼけ眼で鏡を見る。

いつもと同じ朝なのに、何かが違う。とりあえず気にせずに顔を洗う。無添加せっけんを泡立てる。「泡立てる」という動作がどうもおかしくて、私はいつも必要以上にもこもこやっては、入道雲ほどに巨大化したそれを、おでこにつけて、ほっぺたにつけて洗う。

いつもと同じ朝なのに、突如感じる激痛。主に右ほっぺたに何か異物を感じる。痛く、かゆく、違和感を感じるため、丁寧に泡立てたせっけんを、泡立てに費やした1/3ほどの短い時間でさっさと洗い流す。まじまじと己の顔を見ると、そこに立派なポッチがある。もこもこせっけんに刺激を受けたのか、ピンク色になっている。そう、それは何を隠そう「おでき」のお出ましだ。

「にきび」とか、二十歳を過ぎてから「吹き出物」など、肌荒れにはあまり悩まない方だと思う。だが、そういうあまっちょろいものではない。にきびができたことなんて、数える程しかないのだが、できるときはもっとスケールが大きいのができるらしい。とにもかくにも、私の顔の、しかもほっぺという極めてイロジカルな場所に、「おでき」はできた。ぐーぐーすやすや寝ている間になぜかほっぺの上におできの一つでも作ってみようかということになったらしい。

ほっぺの上のおできというのは、とても厄介だ。顔の上にあるということは、自分には見えないということだ。日常の生活に支障はない。日常の営みを行う際、仕事をし、昼食を取り、水を飲み、ミーティングに参加するために、おできがいくらほっぺで頑張ろうと、こちらの知ったこっちゃない。

だが、奴をあなどってはいけない。ふとした瞬間に、頬づちの一つでも打とうものなら、手がほっぺを触れた瞬間に、激痛が走る。あーあ、だから気をつけてと忠告したのに、とおできが言う。後悔先に立たずだ。

おでき一つで何を言う、とお思いか。そんなこと、一人でその苦難を乗り越えるがいいとおっしゃるのか。それはあまりに殺生だ。無理な相談だ。なぜなら、痛いものは痛いし、いつも痛いのでなくて、無意識の動作やふと忘れた瞬間、突然罰ゲームがやってくるようなものなのだもの。

ここまで厄介なおできだと、おできに教訓を学んだかの錯覚にまで陥る。無意識になるとき、細部に気をつけないとき、大切なものを見逃してしまうのかも。見えてないからいいや、なんていい加減な気持ちを少しでも持ったとき、そのしっぺ返しは自分にかえってくるのかも。

おできにここまで振り回されるとは。わたくしもまだまだ修行が足りぬ。
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by Haruka_Miki | 2006-03-17 00:00 | 五感