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パリ発 五感の穴

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カテゴリ:経済的営み( 52 )

あるふとした考え

私は、多分そこまでは夢想的ではないし、シニカルかつ現実主義的で冷ややかな見方もする性質なので、貧困撲滅、とか最貧国の人を救え、とかそういう命題にそこまで心が躍るわけではないのだが。特に、開発には懐疑的で、開発学というものの力関係に、援助するという思考回路に、どこかなじめないでいたことは告白しなければならない。そうは言っても、ふと、もう一度自分の仕事を考えた時に、出来上がった従来型の金融市場のスキーム生きることは、特にそこに適当な命題を見つけられないとするなら、その仕事は、今を生きるというよりは将来の蓄えとしていい過程と受け取っていた。だから、何だかんだ言って、世界の端の誰も何も気にせず、気にしてもどうしようもない状況について―人々のいがみ合いであり、殺し合いであり、政治的圧力であり、子どもが傷ついたり―そういうことを考えることは、一人のコミュニティを形成する人間として、理屈抜きで大切なんではないかと思っている。話が大きすぎるし、いかに、いつ、どのようなタイミングで、アクションを起こすのか、まだ模索中であるが。

人々のアクションに共鳴して、そこにヒントを見出すことは往々にしてあり、また本を読んでインスピレーションを受けることもある。人々とこうしたことを話すことで自分の思考の穴を見つけることもあるだろう。直近で、最底辺の10億人という本と、マイクロクレジットの文化人類学―中東・北アフリカにおける金融の民主化にむけて という本を読んだ。前者では、世界の最底辺の10億人がなぜその状況に置かれたかを滔々と述べ、後者では北アフリカにおけるマイクロファイナンスの可能性を淡々と分析していく。

政治にできること、資本主義にできること、両者にできないことは五万とあるはずで、反対にそれぞれにできることも五万とあるはずで、一偏にこれが解決方法だ、とか、これが世界の貧困の根本だ、という単純な話はないであろう。貧困というのから、余りにかけ離れた世界に私は生きていて、同じ言語を、同じ気持ちを共有することは簡単ではないであろう。人々の悲しみが、私の悲しみとは言い切れない現実で、しかし何とかしなくてはという気持ちはただのセンチメンタルな感情に過ぎないかもしれない。そして、最底辺とまではいかずとも、日本国内においても様々な人がいる現状に、目を向けずに、国外のまばゆい光をばかり見ようとすることは、ナイーヴすぎるであろう。

ナイーヴさを重々承知で、やはりコミュニティが、人が嬉しいことは私も嬉しいし、どうにかこうにか、その嬉しい楽しい感情を抱ける共同体を作っていく一翼になりたいし、それがライフワークになればこんなに嬉しいことはないと思う。最底辺とか、そういうのはよくわからない。できることならば、私は繊細な人間で、汚いこと、怖いこと、痛いこと、辛いことに関わりたくはない。開発がひょっとすれば胡散臭さと感じるのも、そういうことに関わりたくないという気持ちがどこかにあるからかもしれない。発想は抽象的過ぎて、問題提起はマクロすぎるのだ。そこを出発点に、やはり自身としては資本主義の力を味方に、しかしそれが当然全能的でないことを理解しつつ、さて人がまた、それ以外の方法で人がハッピーになれる方法を、次の二年間で考えたいと思う。
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by Haruka_Miki | 2008-08-14 00:00 | 経済的営み

席の地政学

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(上空から見たブエノス・アイレス。水の色がね、イメージの南米のまんまでした。)

最近、ビジネス空間での距離感について考える機会が多いです。距離感というのは、メタフォーな距離感ではなく、そのまま身体的な距離感が仕事に与える影響について、です。

例えば、テレビ会議。国境を超えた会議、異なる都市間でのオフィス間の会議、世の中便利になったものです。でも、重要なコミュニケーションはvis-a-vis、面と向かってでないと駄目だなぁというのもまた然りでして。テクノロジーの進化によって、コミュニケーションツールがどんどんよくなる中、実は人々は本当の身体的な距離感をとても重要視していて、同じことを話しても、面と向かってだからうまくいく、同じ会議室だから分かる、というのが相場です。あれは、なぜなんでしょうか。

同じ空間・時間を共有する場合でも、それに加えてどこに誰がいるかという位置関係が人のコミュニケーションに与える影響は少なからずあるのだとか。自分と他者との関係などを考える心理ゲームなどだと、座り位置によって他者に与える印象が異なったりする、というのを聞いたことがあります。前に座るより、隣の方が親近感がより湧くだとか、右隣と左隣でも差異があるだとか。その辺の細かい話はわかりませんが、私たちは普通の生活で人との距離感を保ったり、近づいたり、言葉の世界や二次元の画面上では伝わらないものを互いに放ち、感じ合うんでしょうかね。

そんな中、ここのところ気になっているのは席の地政学とでも言いましょうか。一つのチームの席の配置と人の位置関係。レイアウトといったところもそうですし、それが決まったところで、誰がどこに座るか、はかなりその組織を反映するし、誰が誰の近くに座るか、というのもまた仕事上のコミュニケーションに影響を及ぼします。皆無意識にやっていることですが、二つの組織で働いて比較をすると、その差は歴然です。それは、私自身がどこに座っているかという個人レベルからの問題提起でありますが、これが意外と、ただその席が空いていたから、以上の意味合いを持っていく気がします。

この辺が、気持ちの上ではSOHOな働き方に大賛成であるものの、しかし現実的な問題としては、個人商店のお仕事で無い限り、やはりなかなか難しいところもあるのかな、と考える所以です。
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by Haruka_Miki | 2008-06-17 00:00 | 経済的営み

お土産の定番

いつも不思議なのですが、お土産の定番といえば、なぜチョコレートなんでしょう。

お留守番のお土産は、チョコレートでした。だって、スイスといえばチョコ。ステットラーに、リンツに、トブラローネ。チョコレートのオンパレードです。どこのお店か分からない、ぺカンとカラメルのチョコレートが相当美味でありました。

いや、スイスならば、チョコは分かります。ベルギーでも、チョコは分かります。フランスも。多分西欧でなら、ありです。けれど、インド土産で、タージマハルの絵のなんちゃってチョコなども、個人的に、そのノリにぐっときます。以前インド旅行をした時のマンゴーチョコもチョコの概念を覆しておりました。

祖母曰く、「お土産は食べ物に限るよ。食べたら美味しいし、嬉しいし、後に残らなくってね、いいもんね。」チョコレートときたら、お土産のルール、ど真ん中であります。もらったら、普通に美味しく頂く。以上。多分チョコレート土産の真髄はここにあり。ですかね。

ちなみに、いくら無難で、美味しく頂けても、成田からのバスに乗るのならば、車内の温度に要注意。特に通常食べ慣れないものなどは。以前、某ベルギーチョコを下のトランクルームに入れたら、真冬で暖房はぽかぽかで、見事に板チョコ化していましたもの。
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(トゥールーズで二日お世話になった、おじいちゃんおばあちゃんの家のわんちゃん)
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by Haruka_Miki | 2008-05-30 00:00 | 経済的営み

ぶどう製品を楽しんでみる

私のことを簡単に説明するとするならば、元来ぶどうジュースが大好きでして、一方ワインのことはようわかりません。ぶどうとの相性が悪くないことだけははっきりしていますが、どうもワインの諸々はよくわかっていないというところです。

とりあえず、そんななので、たいがいは自分と同席している方の方が断然ワインのことを分かっているケースが多く、そうなると任せきりですし、顔馴染みの店であれば、お店の人に聞いてしまいます。大体そこまで飲める口ではないので、嗜む程度でにこにこです。
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(これは数年前のプラハ。ホットワインが至るところでふるまわれていました。)

そんなこんなで、ワイン道を開拓するには至っておりません。ワイン通、と呼ばれる上司達を見て、いいなあと思うことはありますが、それを横目に「私はワインスクールより利き酒に興味がある」と言っている同僚に親近感を覚えるのは、学生時代の名残りでしょうか・・・。さて、ワインが作られる地方も、ブドウの種類もさっぱり分かりませぬが、一つ分かるのは、悪酔いしないけれど、それなりにドライで、少し癖があるワインが好きなようです。と、素人の言葉ではワインは語れぬものがありますかね。

そんな中、先日とあるワインを飲む機会がありました。シチリアの有機栽培ワインで、相当癖があって、いまだかつてない味でした。Frank CornelissenのRosso del Mongibelloと言うワインです。このワインは、ただの有機栽培ワインではなく、本気の本ちゃんな超有機栽培ワインなのだそう。たとえば、無施肥による栽培で、農薬もボルドー液でさえも基本的には使用しないのだそう、そのほか、長期間のマセレーション(てなんだろうと思い調べてみました→マセレーションとは)、醗酵・熟成をアンフォラと呼ばれるテラコッタの壺で行い、二酸化硫黄も完全無添加、ノンフィルターでボトリング、しまいに屋外で醗酵を行なうんだそうです。

味はとにかく、なんだろう、これ!という相当土臭いというか泥臭いというか太陽臭いというか、不純物も心なしか混じり、色も独特で、これを売り物にしているところがすごい!という迫力を感じさせてくれて、後にも先にも似たものは飲まないであろうというような、忘れられない味となりました。

有機という言葉に最近段々慣れてきてしまったわけですが、この泥臭さと、哲学の塊!のような代物を前に、有機栽培の厚みを感じずにはいられず、渡欧した際の一つの楽しみとしてこれはちょっと色々飲んでみようと思わすのでした。
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by Haruka_Miki | 2008-05-21 00:00 | 経済的営み

トップダウン・ボトムアップ

旅のことやら趣味の話は大好きで、話題がつきないのですが、たまには仕事について語ってみようと思います。
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(といいつつブエノス・アイレスのボカ地区の風景)

現在私は、幸運なことになかなか興味深い仕事生活を送っています。仕事の中身というサブスタンス的なところでは、組織の存在意義・ミッションは千差万別なので、前職も現職もそれぞれの面白み、うま味があるのですが、実はサブスタンスな部分と同様に、私が興味津々なのは、構造的なところでの違いに関する発見の数々でしょうか。「組織」なので、結論として言えることは、集団にはいずれの場合にも歴然としたヒエラルキーが存在します。それだけでなく、その順番や経過、具体的に、組織の意思決定プロセスにはかなりの組織色が出ることが、対照化する二つの組織で働いて分かってきました。現職と前職は、世間的には真逆と思われる組織ですが、ピンで動く「人」ベースで見れば、多少の傾向の差はあるにせよ、基本的にそれは組織形態の差程は変わらない気もします。

学生時代、新卒採用のプロセスでのことです。前職の最終面接で一つの質問を投げかけたのを思い出しました。「こちらの組織での意思決定はボトムアップですが、トップダウンですか」と。今考えたら、唐突な質問にも思えますが、実はこれは組織人として働く際のかなりコアな投げかけだと思っていたりします。ちなみに、その時の回答は、間を入れず「トップダウン」でした。

実は、学生時代に私は今以上に、トップダウンという言葉にかなりのアレルギー反応があり、ボトムアップ信者(?)でありました。下の声を吸い上げる組織に、透明さなりフラットさなりクリーンさというイメージを抱き、反対にトップダウンという言葉には、権力的なものを感じ、そのイメージに対して自然と拒否反応を示したからだと思います。

ですが、もちろん全ての戦略の良し悪しは裏表です。実際「トップダウン」と称された前職は、コアバリューであるWhatの部分の決定は完全にトップダウンで、それ以外の、いかにその決定事項を成し遂げるか、のHowの部分は、実際の働き手達の手に委ねられる部分が多かったように思います。この結果、大枠の基本的枠組みがマネージャーにより決められている反面、Howのところには遊び心や創造性が求められ、そこに組織人としては付加価値を見出していたように思います。何をやっても、進むべき方向は決定しているので、効率的で、それなりに小回りが利く働き方だったように思います。他方、Whatの部分を一つ一つ作り上げるというよりは、全体的なコスモを見据えながらの作業なので、ミクロをこつこつ積み上げていく人には空を掴む仕事プロセスにもなり得ます。私は将棋も指しませんし、囲碁もしませんが、おそらくそうした勝負師が綿密な運び以前に宇宙的なものを考慮する、それに似ている気もします。(そういや、いつか羽生名人もそんな発言をしていたんですもの。)

対する現職は、世間的にはザ・トップダウンだと思われており、実際この上ないヒエラルキーの様相を呈しているのですが、実はそれは肩書きがものすごく重々しかったりの結果であり、前職とヒエラルキーという観点でそこまで違うのかと言えば、結局は「組織」という同じ星の元に在ります。現職の組織は、私にしてみればとてもボトムアップな組織だと思っています。まず、一つの問題に対し、一番下の人が対応し、その対応ぶりを次々に組織の上席に上げていき、修正が必要な場合はそのプロセスで行い、ということになります。当然ながら、前職のようにマクロな意思決定は、トップの議論によって決められるのですが、その後のプロセスがまた大変ボトムアップなわけです。こつこつ一つずつの仕事を積み上げる→それを上に挙げていく、というところが、もしざっくり言って、意思決定自体は結局トップがする、という点で前者と同じであっても、一つの仕事がなされる時間を大幅に増やします。当然、こつこつやれば、その上にできた結論はゆるぎないものなのですが、とかく非効率であります。

こうしたサブスタンス的な話を一切考慮しないとすると、やはり個人的に一番動きやすい意思決定プロセスは、基本ヒエラルキーの中ではトップが意思決定をするが、決定された後の具体的な立ち振る舞いは個々人の裁量の自由が与えられる、でしょうか。この自由、というのは厄介で、逆にノウハウの共有などがしずらいデメリットもあるとは思いますが、スピードを活かし、個人のモチベーションを上げるにはいいのかと。

小娘、何を言う、という話かもしれません。組織の意思決定方法が、組織のミッションと密接な関係を持つことも言えるでしょう。ミッションが経済型(金銭的利益追求型)でなくなればなるほど、つまり政治型になればなるほど、このトップの意思決定は難解を極めたりするのだと思われます。

が。やはり、一組織が動かしうるより大きな存在―それがまぁ国、とかグローバルな共同体、とかだったりするのでしょうが―があるのであれば、相当強いトップダウン的な意思決定と、それを決定するための「意思」がとても重要なのではないでしょうかね。

仕事が何であれ、ミッションを最大化して、一番最善な方法を考える時、仕事内容だけでなく、それ以外のロジック的側面の重要性を切に感じる日々であります。
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by Haruka_Miki | 2008-05-15 00:00 | 経済的営み

<喜び>から始め、<喜び>だけを追求するということ

休暇中に、「スピノザ 共同性のポリティクス」(浅野 俊哉著・洛北出版・2006年3月)を読み始めました。
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(ある日目覚めれば、絵のような空)

メディアに触れ、辺りを見渡せば、個人の幸福、国家、共同体、法、制度、それぞれの現状の分析と、批判と、尽きない悩みと悲しみが、多く語られ、書かれているのが常です。また、哲学関連の書物を読むと、大抵考え込み、悩み、問答するが再生産される場面が多いのですが、スピノザに触れて、久々に頭をがーんと殴られた感覚になっているので、スピノザの原書を読んでいるわけでもなく、この書自体が読み始めなんですが、とりあえず記しておこうと思います。

スピノザにとって、目下の関心は<喜び>にあると。「私たちが行動を起こす際には、『常に喜びからの感情から行動へと決定される必要がある』、『善とはあらゆる種類の喜びである』といった考えを示し、<喜び>の感情を事実上、倫理的な行為規範の地位にまで高めた。何より彼は、私たちのあらゆる思想と行動および学問の目的は、...すなわち人間が最も能動的な力に満たされた状態―を実現することであると考えていたが、それはスピノザによれば、私たちがより大きな<喜び>へと触発されていくプロセスを積み重ねることの中にしかない。」(14ページ)

「『各々の人の喜びまたは悲しみは、ある人の本性または本質が、他者の本質から異なっている分だけ、異なっている。したがってその限りにおいて、いかなる個人の感情も他者の感情と決して一致しない』。... スピノザは、この多様な<喜び>を交差させながら―すなわち人々が自らの特異性/固有性をいささかも失うことなく― 一つの共同性、より大きな<喜び>を構築していくというプロセスを構想している。スピノザにおける共同性とは、過去や未来に投影された理想郷でもなければ、現在の関係性に安住することでもない... むしろ、『今・ここ』にある<喜び>をもっと十全に、全面的に、かつ集団的に味わうために、自らの思考と身体を構成する力の諸関係を絶えず組み替え、解体し、構築し直す過程の中で実現されていく、『出来事』としての共同性なのである。」(28ページ)

究極的なところでの<喜び>を追求する、つまりは自身の活動力を最大限化するように行動することが、共同体にとっての究極的な倫理的定式であり、その意味で倫理は共同体の存続のために要請される道徳とは全く別物であると。

学士時代から続く興味関心として、特に経済活動を舞台とした―例えばそれが金融市場―人間の本質的な姿を見つめるというのがあります。その一貫で、倫理学、人間の欲望とは何か、等々考え続けています。その大きな流れのヒントの一つは、スピノザにあり、かもしれません。

政治活動にせよ、経済活動にせよ、いやそれ以前に自身の生活というレベルでも、各論と同時に、こうした大きな流れを見たい、考え続けたいものです。
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by Haruka_Miki | 2008-05-06 00:00 | 経済的営み

今週からのこと

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(ブエノスアイレスのAvenida de Mayoの朝の様子です)

新しい仕事が始まりました。全てが、前職とは違う!と思い飛び込んでみました。ここ数日の感想は?違うところはもちろんあるけれど、違わないところもありますね。いずれにせよ、これは、私の前職と、現職の配属先が多いに影響するというものでしょう。

さて、今までは数字で勝負の世界でしたが、これからは当面、言葉で勝負の世界です。I am refrained from prevailing the detailなので、抽象論になりますが、組織の存在意義も違えば、やっている仕事ももちろん違う、組織のニュアンスも違う、というのを体験するのはとても興味深いなぁと思っております。

現状を申し上げると、言葉の世界というのが、今現在はとてもまぶしく美しく見えてしまっているかしら。それは、映画πの主人公にとっての数字だったりするのでしょうが、私の場合、ボディランゲージや「センス」などほど力強いものはないというスタンスですが、ツールに限ると、言葉は心に染み、様々な事象をこれほどまでに理解し易くしてくれる素敵なツールだと思ったりします。言葉を使うというのが、やはり素敵なことだからでしょう。言葉は言葉でしかありませんが、人間よくぞでかした、な発見だなと。言葉が、現実を作る世界というのは、数字で全てが説明される世界とは重なり合いつつもやはり違います。

さて、この言葉をツールとして、私は経済活動の制度面に特化する機会を得ました。経済活動に関係して、制度と実質的な活動があるとすれば、当然制度は実際の活動なしでは単なる取り決めにすぎず、逆に経済活動も、土壌がきちんとなければ、うまくはまわらないわけで、両者は切っても切れない関係です。

経済は多分にオートポイエーシス的な様相を含むようにも思います。けれど、当然その基礎があるのですよね。その基礎を利用して恩恵を受けたり、基礎が万全でなくて困ったり。当たり前ですが、私自身は普段は気に留めていないことでした。

そのことを考えると、制度を決めるパーティと、それを利用するパーティの相互間の交流はやはりとても大切な存在だな、と。顔が見えぬ相手を前に、あれを決めても、こう動いてもドンキホーテな状況であるのだと改めて感じました。
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by Haruka_Miki | 2008-04-23 00:00 | 経済的営み

霞ヶ関考

霞ヶ関に足を運ぶ機会があった。私にとってはだいぶ珍しく、縁があまりないエリアである。慣れない場所なので、動揺したのか手袋のかたっぽまで落としてしまった(多分エリアの問題ではない。ちなみに、幼稚園の時に発表会で猪に扮した、「てぶくろ」というウクライナ民話を思い出した。あれはとても素敵なお話しですが、私の手袋はあいにく動物達の住処にはなっていないでしょう。)

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お察しの通り、私はなかなか移り変わりの激しい業界にいて、その中の人材マーケットたるは、随分と流動性の高いものである。引き抜き、引き抜かれ、自ら動き、会社に動かされ、それが常の業界だ。ヘッドハンターからの電話にもやがて慣れる。いや、私が優秀とかでなくこうした電話は、この業界の日常の図だ。

さて、民の中でも流動性が高いこの業界の状況はそれなりに見慣れているわけだが、官と民となるとどうも縁遠い。ただ一つ、官から民へ動くのは結構よくある話なのだが、民から官への矢印は殆どないように思えてならない。それは組織的な民営化という意味だけでなく、人の移動について特にそう思える。

モチベーションのレベルで、民で働く人が官で働きたいと思えない(失礼)というところもあるだろうし、昨年夏ごろまでは特にイケイケなバブルな装いの経済の中で、もはやお国のためにという感覚はなくて、金銭的なリターンも早い段階で得られるきらびやかな業界に流れたのが、2005年入社以降の新卒のトレンドだと私なりに思っていた。と、時代的なものもあり、また若手が仕事に求めるものはもちろんあるけれど、やはりどうしても民から官の流れをかなり狭めているのは、そもそも制度面でそのような道が殆どないからという気がしてならない。

もちろん、官の世界と一括りに言っても、様々な組織があるし、民間からの採用を積極的に行っているセクションも多数あるとは思う。ただ、国家試験があり、大学卒業と同時に国一か否かでそれなりの道筋がある世界というイメージは強い。こうしたエリーティシズムな「新卒採用」が大勢で、この世界に中途採用(民間からの一時的な出向などは除く)があるかさえ私は分かっていない。

国は国だし企業は企業だし、そのミッションは違うわけだから、同等のものとして比較はできないのだろう。日本はおそらく、国とは名ばかりで、実は国=企業に至極近い世界のいくつかの国々に比べたらまだまだ国、なのであろうし。その前提を持っても、組織のレベル向上には、やはりそれなりの流動性は重要なのではなと思う。むしろ、その流動性がない組織というのが、正直怖い気がしてならず。
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by Haruka_Miki | 2008-02-20 00:00 | 経済的営み

住むの拡がり

ここ七年ほど寮暮らし、アパート暮らし、マンション暮らしをしています。寮は例外的で、一年は四人部屋というのを経験しました。当然個の概念もなければ、プライバシーという言葉さえ忘却の彼方でした。後者二者においては、基本的に近所付き合いというほどのこともなく、共同空間も限定されているので、他の住人の方々とあまり共同に生活を営むということはありません。スマートな関係性がある程度マナーになっている気もします。

共同住宅に関心を持っています。例えば、あいにく団地に住んだことはないですが、大変気になります。基本的に、コミュニティハウスの概念に何かを感じるからかと思われます。最近は、祖母がグループホームというお家に住んでいるので、共同住宅について考えるきっかけになっているかもしれません。

さて、最近は少しおさまりましたが、郵便受けには毎日山ほどの新しい物件情報が入れられます。「○○の杜」など様々なコンセプトに基づき、不動産会社があれこれと住宅を作っているようです。

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(ウィーン、フンデルトヴァッサーハウス)

やはりそんな中で気になるのは、決してゼネコン的な商業主義を前面に出さないタイプの共同住宅です。郊外の団地であったり、コンセプチャルなコミュニティハウスであったり、海外の試験的な団地であったりです。東京近郊であれば、駒沢公園の泰山館、私が大好きな建築家、フンデルトヴァッサーのオーストリアにあるHundertwasser Haus、またドイツのWeissenhof団地が気になります。Weissenhofはオフィシャルサイトがドイツ語の他に日英であり、日本人の来客も多いのかしらと思わせます。

住空間について考えます。必要性にかられて住む、そこから一歩入り込んでコンセプトに共感して住む、共感すると共に再帰的に作り出していくプロセスに携わる、住空間も住むも、やはり最終的には様々なレベルの「住む」がある気がします。
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by Haruka_Miki | 2007-12-14 00:00 | 経済的営み

芸術関係の金融商品

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少々仕事的な話を。ザ証券会社な内容に思えるけれど、意外と多分他方面にも援用し得る話だと思う。

どこのセクション、会社を問わず言えることだと思うのだけど、通常一定のポジションを保有する際は、そのポジションを擁することによって抱えるリスクを軽減させるためにヘッジのポジションも持つことがしばしばある。例えば、社債に対して、同じ満期の日本国債を空売りするとか、固定金利と変動金利の金利スワップを持ったり、社債の信用リスクを考えて、その会社のクレジットデフォルトスワップを持ったりとかそういう話だ。

この世界で、インデックストレードも盛んで、クレジットデフォルトスワップのindicesとして名を馳せるi traxxは今や日本版のインデックスもある。不動産担保証券のインデックスは、日本にはないものの、アメリカでCMBXという指標がある(Thank you O-san!)。それぞれの格付けのクレジットが日々更新される。ちなみに、最近はアメリカのサブプライムの影響もあり、ボラティリティが相当高いようだ。

さて、なぜこうしたヘッジやインデックスの話を持ち出したかと言えば、こういうものがおそらく金融以外の対象物、私の興味範囲としてはそれが例えば芸術なわけだが、こうした素材にも多いに適応できるんじゃないのかしらと信じて疑わないからだ。

芸術作品といえば、画廊やオークションハウスでオークションにかけられる、ないし相対に取引をするのが大抵の流れな気がする。芸術の売買が盛んになればなるほど、それだけに一つの市場全体の相場を提示するようなインデックスが現れても突拍子も無い話ではない気がするし、クレジットデフォルトスワップ(ある一つの作品の値段がいくらを割ったら、ある一定の金額は保証しますよ、代わりに保証金としてプレミアムをくださいというようなスワップ。もしくはインデックスが存在するならそれを空売りして、信用力低下の場合にはヘッジできるようなシステム)のような取引だって大いに実現可だと思う。あとは、作品購入時に発生する為替の差異を保証するような為替スワップなどを、作品購入時につけたりとか、もうそういうのはあるんだろうか。

作品を買う・売るが多くなっているのならば、それに対応するこうした金融商品もあり得るんじゃないかと。こういうのを考えるのは、楽しい。
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by Haruka_Miki | 2007-12-05 00:00 | 経済的営み