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パリ発 五感の穴

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カテゴリ:経済的営み( 52 )

働くということ

仕事が板についてくるのはいいことだが、それは裏を返せばマンネリ化だったりもする。全ての仕事はある種の専門性を極めることに通じ、常に向上していくのが理想で、現実には力が入りすぎて、結局は毎日やる仕事はあるレベルにおいて、一つのプロセスに落ち込んでしまう。

いつもと同じ平日の朝で、シャワーを浴びる。ウェブ版の新聞に目を通し、いくつか気に入りのラジオニュースを聴くきながら、コーヒーとグリーンサラダと田舎パンと果物を頬張り、出勤する。電車に揺られて束の間の読書を楽しむ。いつも同じ車両の同じドアで乗り降りをすると、一方的な顔見知りも何人かいる。いつものように歩いて、あとはエレベータで仕事場に上がる。

それは一つの心地よいリズムとして確立されていて、仕事もその延長上線である一定の心地よさの中で続いてく。もちろん、激動の市場の中で、特に最もエキゾチックで話題の商品に携わっていて、刺激は多い。日々アドホックな問題も多発するけれど、そうはいってもある程度自分の裁量で心地よいリズムは続けていけるのである。仕事柄。

仕事に慣れることの良さを感じることに少し遅れて、そのことに対する危機感を感じるのは当然のことかもしれない。社会人という身分になり、突然今日私はその危機感に直面した。それは、仕事がつまらない、つまるという問題ではなく、アプローチ方法で自分がもっと色々できる点、そのことを重々承知ながら心地よいリズムを続けようとした、自分の甘さへの危機感だ。

危機感を感じた時は行動すべし。それを受け止めてくれる有難い職場環境だ。マネージャーに、現在自分が学びたい事柄、そのアプローチ方法を相談すると、的確なアドバイスを頂戴できた。向き合ってくれるマネージャーの存在の大きさは計り知れず、その点で本当に自分は恵まれているなあと思う。

心地よいリズムに目を閉じることなく、代わりに身体を動かしたり、思わず口笛を吹いたり即興できる心構えをいつでも持ちたい。自分で動くこと、すなわち、「人」が「動く」ことが「働く」である。社会人二年目の今の、働くことの意味合いはそんなとこです。

これがまた、様々な場面で変わっていくのかな。
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by Haruka_Miki | 2006-11-17 00:00 | 経済的営み

デザイン:差異をもっと素敵なものに

f0079502_1242429.jpg東京のそこここで、今週はデザイナーウィークなるものが開催されていた。最後の日ともあり、愛車チャーリー(うぐいす色の自転車。少しサビ有り)でえっちらこっちら神宮外苑まで行ったきた。途中にある花屋の店先で立ち止まったり、コーヒー屋さんで油を売ったり(ちなみにそれは美味しいエスプレッソだった)、いつもどおり、通行人の皆様をひきそうになったりと、辿り着くまでに多少の時間を要したのたのですが。

デザイナーウィークは、神宮外苑のメイン会場に加え、東京の様々な場所で展開され、ショップや、大使館など様々なアクターが参加している。毎年、この位の時期に行われている。メイン会場では、国内外の商業デザイナーの作品が展示されていて、なかなか興味深い。ちなみに、3,4年前のデザイナーウィークでは、フィンランド大使館だかに入れて、様々なフィンランドデザイナーの作品が見れたように覚えている。f0079502_12113563.jpg

一般市民のわたくしは、1500円(事前予約がないと2000円)お金を取られるということにしばしご不満だけど、それでも収穫が随分とあった。私は、木が好きなので(版画でも、銅版画より木版画が好きだし、鉄筋よりできれば木造がベターだし、石の文化より木の文化にぐっとくる)、木を用いた作品に惹かれた。

二人のデザイナーの作品が特に素敵だった!一人はベルリンの商業デザイナーの作品で、Osko+deichmannのOskoさんの椅子。"Shell Chair"と言って、木製のその椅子は、ぱかっと上下に開くと椅子になる。その姿はさながら貝殻。特に、オークの木の色がまた温かみがあって素敵。何しろ、ごちゃごちゃデザインばりばりの作品が多い中で、シンプルなものほどなんだか引き立つのだ。

二つ目は、embodydesignのKatsuta Iwamotoさんによる椅子。日本伝統の組子用いた椅子で、しっとり。木の繊細さと懐の深さにぐっとくる怪しい私。何がすごいって、日本の建築、もともと釘を使わないこと。組子も、釘を使わないで木を組み付けるわけで。素敵でした。

以前のブログで書いた、「デザインとアート」の違い、ちょっと分かった気が致しました。
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by Haruka_Miki | 2006-11-05 00:00 | 経済的営み

不完全からの出発

眼鏡を買いました。

質がいいセーターが欲しいなあと街を歩いたのに、何故か色とりどりの眼鏡の小宇宙に惹かれて眼鏡店に入り、眼鏡を買ってしまいました。コンタクトで過ごす日も多いのに、眼鏡も好きです。f0079502_12103127.jpg

思えば、中学生の時の通学時に、電車に乗ってあっちにおっとっと、こっちにおっとっとと、押し合いへしあいしながら漢字を覚えた時から目が悪くなってしまったのだ。悪いといっても、まあかけていなくても目玉焼き位焼けます。ほうじ茶位入れられますが。

目が悪いってのが、別に嫌いではないのです。いいにこしたことありませんが。なんとなく。不完全なとこも人間らしいので。人間らしいというか、私らしい、かしら。唯一、山登りのときとか旅行で荷物を小さくまとめたい時くらいかしら、支障をきたすのは。

思いっきり趣味にはしってみようと思ったけれども、それもどうも仕事には不都合だろうし、秘めた主張ができそうな、小洒落たオフホワイトに、耳のところがべっ甲柄のやつです。

「眼鏡」って位だから、まあ眼の鏡=眼に色々なものを映し出す手助けをしてくれるわけだけど、反対にそんなどんな眼の鏡をかけるかは、反対にめがねをかける人を見る皆さんにとって、その人を映す鏡になるわけで。

次回お会いした時は、眼鏡かも。
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by Haruka_Miki | 2006-10-29 00:00 | 経済的営み

ヴェニスの商人、肉一切れの重み①

かたじけない、今日は重いテーマです。

私は、幸運なことに健康で、臓器の問題もなくて、幸運なことにそれは家族にも言えて。もしかしたら、臓器を必要とする人の心情は完全にはわかれないのかもしれないけれど。でも。臓器を待つ方やそのご家族こそショックだったのじゃないかしら。

日本で、臓器売買の実態が明らかになった。あー、そういうことが国内で起きてしまったかというショックと悲しさと困惑がある。6年ほど前、私は大学受験でそうした時事問題をテーマにしては小論文なるものを書く練習をしていたのだけれど、その時はまだ、臓器移植が日本で認可されたばかりで、倫理問題を問うにも、まだ様々な仮定の延長上の論考だった。今、臓器移植は一つの当然な権利であり可能性であり、だからこそ様々な懸念が現実として噴出している。私達が目にするのは、氷山の一角かもしれない。

明らかに臓器の売買の可否は、国の規制によっても異なるけれど、表向きであれ全世界で認められてはいない。先にイギリスのBBCの報道が話題になり、その真相の程は到底報道を信ずるか否かに依拠するしかないにしても、私は衝撃を受けた。

いま、

人の命は、今売買の対象となった。命は、心と身体という二分ではなく、その身体さえ切り刻まれ部分部分で扱われるようになった。以前読んだ本で、こわーくなってしまった一節。

「おそらくは地上最後の資源・商品として狙いがつけられたのが,人体という金脈なのだ。倫理的な壁さえ突破できれば,莫大な利潤が見込まれるのである…先端医療が推進される本質は,患者を救うことではあるまい。資本主義の延命にこそあるのだ」『脳死・臓器移植の本当の話』(小松美彦/PHP新書/398ページ)

倫理が最後の砦という現実。それほどに科学技術の発展は私達の手の及ばないところにある。この倫理というのが、専門家だけにしか叫ばれなくなったら。法整備ではもうどうにもならないことになったら。

とてつもない恐ろしさが、迫ってくるように思えるのは私だけかしら。
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by Haruka_Miki | 2006-10-05 00:00 | 経済的営み

ヴェニスの商人、肉一切れの重み②

少し長くなります。ご了承を。

学生時代に、関心がある学術テーマが近かったこともあり岩井克人さんの本が好きだったのだけど、今読み返してもすごく鮮やかで、言葉って、概念って、経済学って、社会科学って面白いなあと。

f0079502_1218120.jpg今回の臓器売買に照らし合わせて、「ヴェニスの商人の資本論」(岩井克人/ちくま学芸文庫)を再読。かの有名な、シェイクスピアの喜劇「ヴェニスの商人」を経済的、資本論的観点から論考している名著。それは、ある意味で臓器売買が起こる現代社会を如実に表しているように思えるのだ。臓器移植がいいか悪いかは差し置いて、現実に臓器移植が行われるこの社会について考えたとき。

イタリアはヴェネチア。物語の登場人物は、ヴェニスの商人アントーニオと、金持ちで金貸しのユダヤ人シャイロック、そしてアントーニオの友人バサーニオとポーシャ。二人は、アントーニオにとって兄弟にも近い共同体の存在だ。さて、アントーニオは金が必要となり、兄弟のようなバサーニオに援助を求めるが、手持ちがないと断られ、やむを得えずアントーニオは高利貸しとして毛嫌いするシャイロックから金を借りる。それまでシャイロックのことを軽蔑していたアントーニオが今は自分に頼る。高利貸しという汚名と裏腹に、今回は利子と取らずに金を貸そうとシャイロック。代わりに、金の返済不可能の際には、アントーニオの身体の中で好きな部分を一ポンド切り取ると明記してほしい、と言う。さて、その後契約は不履行ということになり、二人は人肉裁判で対面することになる。アントーニオは友人二人の助太刀もあり、アントーニオは法廷で勝訴するかたちで物語は終わる。

このお話を、「ヴェニスの商人の資本論」では、表向きはアントーニオの前面勝訴、アントーニオと友人たちの麗しい関係でよかったよかったとなるところを、違う視点で捉える。

「だが、このことは一体シャイロックの敵であったアントーニオの全面的な勝利を意味しているのであろうか?答えは―否である。もちろんアントーニオは裁判には買った。しかし、この裁判の全経過をつうじて、アントーニオが体言しているはずの兄弟盟約的な共同体原理は一度として力を発揮したことはんかあった。いや、アントーニオが裁判に勝ったのは、けっして彼の懇願していた『話し合い』によるのではなく、逆に、シャイロックの発する『証文どおり』という言葉をわがものにしたポーシャがその論理を極限まで追求するようによってなのである。アントーニオは、等価交換の原則という共同体の外部の論理、すなわちかれがもっとも軽蔑していたユダヤ人の論理をみずからの味方にすることによって窮地から脱出しえたのである。」(文庫版38ページ)

私達は、前提として共同体のつながりの中での臓器移植を求める。その中での、ドナーカードの存在があり、このつながりを前提に臓器移植は可能となる。そして、今日の臓器移植問題を、等価交換という上で言われる「ユダヤ人の論理」で捉えることを忌諱し、ところが法の整備などという「ユダヤ人の論理」に解決を求める。というのも、「兄弟盟約的な共同体原理」、例えばそれが臓器移植に対する知恵、倫理観、世間的な何かにあたるのかはわからないけれど、そうした原理がもはや機能していない社会だからだ。臓器移植は、こうした現代状況をクリアに表している気がする。

しかしだ。いくら法の規制があっても、いくら能死や臓器移植が明文化されても、それだけでないのが社会なような気がする。もう「共同体」的なものが破綻しているのかもしれない。けれど、生命倫理においては、それが最後の砦として、法というプラットフォームに合わせて、私達一人ひとりが、グローバリゼーションの中で何らかの倫理を取り入れていかねば、法の抜け道やアンダーグラウンドマーケットなど、日の当たらないところでの取引が助長されるだけに思えてしまうのだ。

さしあたり、一市民として、生命倫理学に強い関心を持ち続けたいと思います。

Life Studies Blog by Professor Masahiro Morioka
http://www.lifestudies.org/weblog/
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by Haruka_Miki | 2006-10-05 00:00 | 経済的営み

ギャップが魅力?

仕事でご一緒している方はなかなかナイスさんが多いです。

仏像がお好きな方ですとか、国立博物館行って、いつかは古文書が読めるようになってやる、と野望を燃やしてらっしゃる方ですとか

番外編として、指裂けソックス(要は健康ソックス)を履こうとするけれど、どうも履けなくて毎朝挑戦しては失敗を繰り返し、四苦八苦されている方(日本国籍ではありません)とか

とても業種を言うと信じてもらえそうにありませんが、ウソのようなほんとの話です。
ああお腹が痛い。
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by Haruka_Miki | 2006-07-26 00:00 | 経済的営み

オヤジの激流の中で

最近は電車に乗って働き場所まで向かうのですが、色々な発見がございます。なんといっても目が釘付けは、様々各雑誌のうたい文句。

中でも一押しは、ちょい悪オヤジで一斉を風靡したあの雑誌。なんたってタイトルが、もう脱帽。「ちょい『ヨコシマ』オヤジの艶夜(アデーヤ)」、「モテるオヤジは"スケテロ"シャツで『乳(ニュー)リッチ』」って何言っているのかさっぱり分からないような、はたまた分かりすぎのような。オヤジギャグ(上記のオヤジとはニュアンスの違い有り)も正々堂々と言えば、あなたももういけてるちょい不良(わる)なわけで。清清しい。潔い。クール!ちょ・い・ワ・ル!なわけで。

そう、雑誌一つに見ても、オヤジは時代の中で変わりつつあるのだ。親父(怖い、家父長制のシンボル、例:巨人の星の親父)→オヤジ(卑下されるオヤジ像、がんばって働いているお父さんなのにかわいそうに、例:お父さんとは洗濯一緒にしたくない!と叱られる気の毒なお父さん)→こうした、どこかネガティブなイメージがつく「おやじ」という概念を、根底から覆す「おやじリヴ」、それこそがこの「ちょい不良」に代表されるポジティブな「オヤジ」なのです。若いだけがいいわけじゃない、俺達はかっこいい!今こそ世界へ飛び出せ!と言わんばかりの活況さ。ニュージェネレーションオヤジへの流れがものすごいわけです。嗚呼、私も見出しだけで段々感化されてきました。オヤジの禅問答にさえ聞こえてくるキャッチフレーズ。

ところで、紙面の活況さに比べて、私の周りにあまり「ちょい不良」はいません。どこにいくと「ちょい不良」なオヤジたちを確認できるのでしょうか。好奇心満々。新橋にはいないこと請け合い。では何処?なお、父が「ちょい不良」になったら、それはそれで家族会議になりそうな気がすごーく致しますが。「最近どうしたのかな、パパ」と、本気で心配しそうなのですもの。

「オヤジ」でも「おやじ」でも「親父」でも、世のお父様方には自分らしくいてほしいなあと切に願いつつ。
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by Haruka_Miki | 2006-07-23 00:00 | 経済的営み

私は如何ほど?

市場価値ってなんでしょう。それは、今なにかを市場に出した際の価格というまんまなお答えかもしれませんが。最近、この言葉を人に当てはめて使うことが多々あります。自分の市場価値はいくらか、自分の市場価値を高めよう、と。市場の流動性が低い終身雇用の時代には考えられなかった発想かしら。

そんな流行語で気になるのは、「価値をはかる物差し」。多様な市場と需要があるはずだけど、どこか一辺倒な雰囲気。こんな業界でキャリアを積んで、有名なビジネススクールないし院に行って、てね。二つ目に、市場価値の向上ってことは、つまりは自分は常に選ばれる側なこと。

多様な世の中だと言われるからこそ、物差しだって、昔ながらの竹の30センチ定規だけじゃなくていいのだ。
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by Haruka_Miki | 2006-06-26 00:00 | 経済的営み

お客さまは神様です

渋谷の109に行きました。なんと似つかわない場所に、とおっしゃりそうですが、こういうところが案外あなどれない。固定概念を捨てて中に足を踏み入れれば、案外何かが見つかる。なかには、いわゆるギャルの店だけでなく、パワフルな女社長率いるランジェリーの店、そう元はといえば通信販売で一躍有名になったショップなどもあり、ギャルと呼ばれるガールズとは一線をかくした風貌な方々の姿も店内にはちらほら。私は109に来る度新鮮な気持ちになるのだけれど、店員にきちんとしている人が多い。目を見て話す、挨拶を大きな声でする、ありがとうをきちんと言う。敬語が完全でなくても、気持ちいい。別に109だけでなく、たいてい店の接客する側はお客様命で精神誠意尽くしてくれるパターンが多い。例えそれがマニュアルでも。109だけでなく、定食屋でもレストランでもデパートでも。さて、それに比べて買い手の私たちはどうだろ?ごちそうさま、ありがとう、基本をきちんと言う、当たり前のことをきちんとしてるかな。お金を払ってる側だからサービスを受けるのは当然だけれど、お客さまと呼ばれるならそれ相応の、人間の基本をこなせる自分でありたいなあ。
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by Haruka_Miki | 2006-06-01 00:00 | 経済的営み

クレジット社会に甘えて

わたしたちは信用社会の申し子です。何のことかい、ってまあいわゆる「クレジット社会」てやつです。クレジットカードで気軽にお買い物、引き落としは後ほど、手持ちの銭は入らぬ、お金の出入りも紙面やオンライン上で行われる。「貨幣」て何だろう。私はこの手の問いに目がありません。端的に言えば、それは金銭的価値を示すもので、津々浦々その価値が共通に認識されてるもの。そんな「貨幣」に代わって私達の消費活動の切札になるのはクレジットカード。かなりの強い味方です。さて、クレジット社会、それが可能にするのは対価交換の先延ばしであり、お金という現物から遠のくことでもある。お気づきかしら、私いまこの文章を携帯から記してる。実は、カードの自動決済だと思っていたインターネットサービス料が、実は滞納になっていたため、サービスが止まってしまったのだ!そう、フランスの思想家ブルックナーが言ったように、クレジット社会は時に人の当然の責任感さえ薄くしてしまうのかも。消費する自分が対価を払っていることさえ見えにくい社会。まずはつべこべ言わずさっさとネット代払いないって?一理ある。
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by Haruka_Miki | 2006-05-17 00:00 | 経済的営み