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パリ発 五感の穴

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いい仕事をするということ、人にインパクトを与えるということ

ショッキングな映像を見せる。そのことは人々を震撼させ、考えさせ、悲しませ、心を痛めつける。時に気分を害し、ショックを受け、傷つく。私は割合とそういうものに弱い人間だ。汚いもの、怖いもの、辛いもの、非人間的なもの、非倫理的なもの、暴力的なものに打たれ強い方ではない。どちらかといえば繊細で、驚いて考え込んでしまう。

けれど、理解すべきは、ショッキングな映像の創り手の目的は、必ずしもあからさまにそのショッキングな映像を残すことで、ショッキングな出来事や事象を肯定しているわけではない。決してない。むしろ、人の問題意識に訴え、間接的だが効果的に人々の心にメッセージを刻みうる。芸術家と呼ばれる人々には、これを一つのミッションとして日々制作活動に打ち込む人も少なくなかろう。

先日、スタンレー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』を見た。いやあショッキングだった。社会の嫌な面や怖い面、忌み嫌うべき行動がこれでもかとでてきた。見ている私は、それはそれは困ったけれど、ただそのショッキングな映像を見せることが芸術家の意図でないことは痛いほど伝わった。だから目をそらせなかった。

管理社会。罪と罰。人間の欲望。モラル。家族。犯罪。思春期の葛藤。社会の弱者と強者。スタイリッシュに鋭敏に、難解だが明朗にメッセージが紡ぎ出されてる。実は、以前一度この映画を見た。その時の印象が強烈すぎて、しばらくは敬遠していたのだけれど、やはり目をそらすことがない作品で、また手にとってしまった。

ものすごいなと。いい仕事してますねえ、と世界的な巨匠に小娘が言うのは差し出がましいだろうけれど、それ以外に言葉がないのだ。素敵な仕事っぷりな人は魅力的だ。ある意味、人がなんと言おうとこう思うのだ、という強い信念があると、時にそれは随分と意見がありすぎる人だ、偏屈だ、もう少し柔軟に、となる。けれど、社会や人にインパクトを与える仕事って、やはりいい仕事してますねえ、だと思う。ショックを与えられるだけの熱情、それを体当たりにぶつけられたら、こっちも目をそらせないもの。その結果、自分にとってはやっぱり納得いかないメッセージなりだったら、それをしっかり受け止めた段階で反対意見申せばいい。

インパクトを与えるということ、それは別に確信犯的にただショッキングな事象をぶちまけるだけでなくて、そこに強い信念があるから、それをがつんとぶつけるから、結果的にショッキングな方法になってしまってるだけだ。もちろんだから、強い信念がない、うわべだけのショックじゃだめなんだ。それだけじゃただのバイオレンス映画になってしまう。

こういう仕事人がいるかぎり、それを受け止める人がいるかぎり、自分の専門分野や専門手法でいい仕事をする人がいるかぎり、世の中まだまだ捨てたもんじゃない。そして、自分もそんないい仕事してますねえ、な人になりたしと我思う。
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by Haruka_Miki | 2006-04-30 00:00 | 芸術

君は太陽

自分のこと、すごくわかってる気がすんの。
だって自分だもん。

考えたり、ひらめいたり、悩んだり、喜んだり、
そういうのが全部直に私の感情でしょ。
こうしよう、あれがいいって決定や選択や行動をする自身でしょ。

そんなこたない。
みんなちゃーんと分かってらっしゃる。

猪突猛進なところも、
明るさも、
純粋なとこも、
情熱的な反面、
繊細な一面も
人一倍考えがちなとこも
理想に燃える(燃えすぎる)とこも
自己消化・解決しがちなとこも

みーんなちゃんと分かってらっしゃる。

分かってて、あったかい目で見守ってくれてんの。
そんな有難い存在分かってるつもりでいつもは考えない。
自分が今を生きることがメインになってるもの。

そいでも、ある瞬間にものすごく感じる。

さりげなく電話をくれるあなた。
自然と何かを察する君。

好き友たちを持った。ありがとさんよ。

わたしも、親しき君のそんな存在になるように邁進するよ。
あたしは、これからも愛しき君をハラハラさせてしまう存在で居続けちゃうけど。

はしゃぎすぎた私を見たら、影を潜めてたしなめ
少し寒そうな日には、ぽかぽかひだまり、
時に、ぎらぎら熱い光線を。

これからも、太陽のように温かい目で、
歩き続ける私の太陽達でいてくんさい。
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by Haruka_Miki | 2006-04-28 00:00 |

腐っても納豆、腐らなくても豆腐

我が家の食卓のエースといえば間違いなく、ザ大豆製品です。

特に、豆腐のことはひいき目で見ていて、朝晩で一丁平らげることもあります。豆腐も、気分によって絹豆腐、木綿豆腐ととっかえひっかえ。昔は当たり前のように木綿だったのですが、最近はお味噌汁なぞにさらっと入る絹もいいなあと。けれど、個人的には麻婆豆腐は木綿だなあ、なんて。ざる豆腐に醤油を少々、かぼすなどを絞るのも乙。ま、いわゆる手抜き食卓の万能選手でもあります。納豆も捨てがたい。納豆は、ミシガン州でも食べてたよ。あなたミシガンをあなどっちゃいけません。納豆もあるんです。日本人駐在員文化があるところには、日本食材商店があって、納豆もあります。納豆の香りが苦手で、これを読んでいるだけで脳震盪起こしそうだったら失敬。目をつぶって(鼻を閉じて)ね。

さて、納豆と豆腐の語源については諸説があるとの話。学生の頃は、中国から日本に納豆や豆腐がやってくる時に、表記が逆になってしまった、って噂で聞いて納得したものであります。というか、そうだと信じ込んでた。ここ13年は軽く。そしたら、ついこの間こんな話を聞いたの。中国では「腐」という感じの意味が日本語とは異なって、「柔らかく固まる」という意味があるとか。確かに、「湯」という中国語は、日本語の「お湯」とは異なって、「スープ」という意味なんだよ、と友に教えてもらったっけ。そして、納豆についても、お寺の納所という場所で作っていたからとか。おかしなもんです。まず、疑いもなくその食物を「なっとう」・「とうふ」と覚えて、そのうち、「納豆」・「豆腐」と書くのだと習い、しかしなんだか変、「腐っても納豆」、「腐ってないのに豆腐」と言葉のおかしさに気づいた。やっぱり逆に使われてしまったらしいと噂で知り、そうなのかと納得した。それから月日が経ち、あの解決済みと思われた、納豆・豆腐論争が再び勃発。ある時、いや違う、元々中国では真っ当な意味があってそう名づけられた!という強い説を説かれたのです。

段々、「概念」にとっての「言葉」が何か分からなくなってくる。最初は、九九掛け算並みに、はいはい!と鵜呑みにしていたことでも、やがて意味合いを知り、あれ?これでいいのかな?と疑問を持ち始める。すると周りも、あんたは正しいよ、確かにこうらしいよ、と言う。そうだったのか、と納得して日常の生活をしていたら、唐突に、いや元々の呼び名は正しいのだ、理由はこうだと、一度疑い、理解したことがまた一から振り出しに戻る。

なんとなく、社会もこういうことの繰り返しかなと。人間生活を営む上で、言語というものが発達してきた。結局、他人様はやはり自分とは違います。自分のうちにある「気持ち」や社会にある「存在」や「概念」を示す上で、感じてもらうために「共通項」が必要だ。その絶大な共通項が「言葉」です。「ことば」があるから、意思疎通がスムーズになって、互いに分かり合いやすくなる、はず。

けれどねえ、納豆や豆腐でさえ、これだけ熱い、多様な語源論争が交わされるわけです。昔がどうであれ、いまを見つめて、いまナットウは「納豆」で、とうふは「豆腐」だからいいじゃないかといえばそうなんだけど。でもねえ、あなた納豆や豆腐「ごとき」でも色々勘違いや思いをめぐらせるってことは、「物体」一つでもこれだけの話になるってことは、これが「思想」とか「感情」とかだったらどうなるんだろう。

「言語」の可能性と挑戦を「腐っても納豆、腐らなくても豆腐論」とでもまとめて、熱くなる前に今夜はファジーにこの辺で、さらば!
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by Haruka_Miki | 2006-04-27 00:00 | 五感

大きくなったら何になる?

将来の夢は?ってよく自問して、人に聞かれて、いつもインスピレーションで応えたもんだ。

幼稚園の年長組のときは、『帽子屋さん』
(なぜお花屋さんでなくて、幼稚園の先生でなくて、お母さんじゃなくて、帽子屋さん。)

小学生一~三年生のときは、『お医者さん』
(作文でも書いた。「大きくなったら、たくさんの困った人を救えるお医者さんになりたいです。あと、病院を建てて、100台位車が止められる駐車場も作りたいです」て社会貢献的なのか、ある意味、欲丸出しな気もするけれど、欲が子どものスタンダードだからどうもずれてます。)

小学生四~六年生のときは、『ムツゴロウ王国の人』
(当時四半期ごとに行われるムツゴロウ特集に目が釘付けになり、それ以来真剣にムツゴロウ王国の人になるには何をしたらいいか悩んだもんだ)

中学生の頃はなんとなく記憶がない。
おそらく、学校の年中行事の体育祭や合唱コンクールなどが生活の全てだったから。
おそらく、異国の地にいって、さっぱり意味が分からず毎日に精一杯だったから。
おそらく、熱い気持ちを秘めているかもしれないのに、冷めたふりが好きな年頃だったから。
おそらく、ふりをしているうちに、実際自分の熱い気持ちをどこかにしまってしまった年頃だったから。

高校生になり、真剣にやりたいことを考え始めた。

地理や歴史が好きだった。米国で使う教科書があまりにも日本のものと違って、怒ったり、面白がったり、不思議がったりした。忘れもしない、「原爆を広島に落としたことはよかったか否か」という論文課題で、30人のクラスメート中、私とインド系アメリカ人の女の子以外満場一致で「原爆賛成」だったことに、悩んだ。国語のクラスも性に合っていた。(ミシガン州の新興住宅街にある高校にも、おかしな先生はいるもんだ。ギリシャ神話を話し出すと止まらなくなる先生、米国近代文学への情熱が激しい先生)

どうやら自分がこてこての『文系』らしいと薄々気づき始めた。ジャーナリズムのクラスや倫理学のクラスがとても心地よかった。考えたり、問題定義をしたり、書いたりするのが好きだなと思った。そこで、異国の平地(丘はないのだ、ミシガンに)で、物を書ける仕事→ジャーナリストになろう!と思った。そこで、社会科学全般において評判が高い大学を志望し、めでたく入学した。

就職活動という響きが身近になりだした時期に、縁があって金融業界でインターンをしたり、先輩に会ったりした。新聞局で働いて、ジャーナリストの現実に直面していたから、とても惹かれた。何よりも、自分が持っていないもの、その神秘的なイメージに挑戦したいと思った。中でも、この業界の「入社」ではなく、「入職」的な人材の取り方に共感した。


将来の夢は?ってそれはもう口癖だ。大きくなったんだけど、今でも心に聞いてみる。大きくなったら何になる?おそらく、おばあちゃんになっても自分に問い続ける。大人になってから、時に心からの返事はなく、時に曖昧で、時にはっきりしている。大きくなったから、そんな質問ばかばかしいやい、と心に思わないことを心が言うこともある。そんなときは、しつこく聞いてみる。自問し続ける。逃げようとしちゃだめ。

そして、

今、この瞬間、うん!はっきり言える!
「大きくなったら何になる?」
その定番の質問に、いま堂々と答えられる。

予定は未定だけれど、未定は無限大です。
どうぞ、乞うご期待。
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by Haruka_Miki | 2006-04-25 00:00 |

電車に乗る、人を見る

最近、電車に30分はおろか、10分以上揺られるという生活をしておりません。家と会社など、都心の至近距離を行ったり来たりであります。会う人と言っても、非常に限られているわけだ。企業という枠組み、ないしビジネス界という枠組みの中で右往左往しているわけです。

もしくは、先のブログに挙げたような小さな旅もする。けれど、「旅」って基本、日常を抜ける行為だから、旅に使う交通手段も、日常生活ではない感じです。

なんというか、こりゃあまずいなと。よく言えば恵まれているんだけれど。世間の働きバチ達の平均通勤時間は1時間半とかいう世の中で、自転車で5分なんて、喧嘩を売っているように聞こえましょうぞ。なんだこの野郎、とべたなお叱りを今は亡きいかりや長さんに受けそうですが、いやいや、時にこの電車での通勤てのも案外バカにできない、社会を知る上で重要な公共空間だなと我思う。

社会人になり、イールドカーブとかクレジットスプレッドとか為替レートとかそういう、ザ・金融世界に生きて、そりゃあマクロのレベルで世界経済に触れまくっているのでしょうが、うーん、なんというか、連邦準備理事会やら日銀の決定や、市場を大きく左右する機関投資家の決断以外にも、いまこの瞬間に経済的行為を行っている地球の皆さまによって経済が動いているのです、当然ながら。

けれど、そういう「自然の人の呼吸」を聞く機会は少なくなっている気がする。専門家の集団の中で専門的な仕事をすると、多いに勉強にはなるんだけど、ちょっとずれてくる自分もいるのだ、と自戒するこの頃。

そんな中久々に40分乗った田園都市線に乗りました。サッカー少年や、ボーイ・ガールスカウトの子を怒る引率のリーダーのおじちゃん、話に花を咲かすおばちゃん、日曜なのにかわいそうにスーツ姿のお疲れ様なサラリーマン、土建屋の兄ちゃん、背中のバッグの「N」の文字がまぶしい塾通いの小学生、と老若男女と乗り合わせまして。普通の光景がやけに新鮮。いやあ、そうだよ、こういうおいちゃんや少年やおばちゃんや兄ちゃんがいるんだよ、で皆が何かを消費したり、中央政府の決定に影響を受けながら経済活動してるんだよ、って。

「日常」は大切です。「日常」を大切に。
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by Haruka_Miki | 2006-04-23 00:00 |

意味合いは変われど

先週末、鎌倉に行った。北鎌倉の無人改札を抜けて、明月院を見物した。あじさい寺で有名なこの寺も、この季節は春の薫りがたちこめ、桃色や薄紅色の花が細かく揺れる。枯山水の庭も、どこか優しげだ。

北鎌倉からぶらぶら鎌倉に向かい歩く。途中道の去来庵でお茶を頂く。そこからとことこ歩いて、鶴岡八幡宮に到着だ。鶴岡八幡宮では鎌倉祭に合わせて、ちょうど流鏑馬(やぶさめ)が行われていた。流鏑馬は、走る馬上から的に鏑矢を射る、弓術だ。

何を隠そう、わたくし馬が好きだ。取り柄は広大な大地という米国の僻地で、高校生時代の唯一の楽しみといえばウェスタン式乗馬のレッスンだった。馬の息遣いと、またがったときの体温と、走る時の一体感が大好きだ。自然との調和が重要なスポーツだ。今でこそなかなか馬にまたがる機会がないのだけれど、馬の上から矢を射る「イベント」があると聞いて、俄然元馬乗りの血が騒いだ。

圧倒された。メディアを通しては見たことがある位だった流鏑馬は、すごい迫力なのだ。20秒弱の時間に、境内にある馬場を、馬が駆け抜ける。疾走する馬の上から、三つの的に矢を射抜いていく。観光客の私たちは拍手喝采、覚めやらぬ興奮の中八幡宮を後にした。

鏑馬は神社の「神事」だ。もっと前にさかのぼれば、もともとは天皇家の馬場で行われた「宮廷行事」としての装いで、その後鎌倉幕府時代には幕府の「公式行事」だったらしい。元々、武士の鍛錬の意味合いもあって行われた流鏑馬は、宗教や時の権力とも密接な関係があった。

「武士道」という道の思想と、天皇家や幕府という「権力」と、宗教、それが重なり合った時代を経て、今は素人目にはすっかり「観光イベント」になった流鏑馬。けれど、己の目で見ると、それはイベントだけれど、心に迫るものがあって、やっぱり「武士道」を感じずにはいられない。あからさまな独裁的権力が影を潜め、世俗化が進んだ今日に、けれど原点をしっかり受け継ごうとする、流鏑馬行事を続ける人々のにくい心意気を感じた。
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by Haruka_Miki | 2006-04-22 00:00 | Nippon

メディアを選択する

流し見、ながら見、要注意。最近わたくしたちは、あわよくば情報の洪水に引き込まれそうになります。情報技術が発達し、マスコミの特権だと思われてきた情報の伝達は、もはや一方的に受け取るものではなく、発信することもできる。→だった情報は、⇔となって相互的になり、無数の蜘蛛の巣となっていく。

さて、我が家では「情報の垂れ流し反対運動」を行っている。我が家といっても、住人一人の我が家でわたくし家主自身だけだけど。理由。聞き流す→情報を情報としてありのまま受け取る→鵜呑みにすることが当たり前になり易い、から。以上が我が家のテレビが「つかない」理由であります。あるけど、つかない。つかないテレビはただの物体だ。

なぜ「つかない」か。

それはケーブルをつなげていないから。なぜつなげていないか。基本、スタート時点は自分が弱い人間だろうということ。いい意味で自分を信用しない。テレビをつけたときに、ぼーっとながら見してしまう自分の姿が目に浮かぶから。様々な情報ソースの中で、テレビに関して強い注意を払っている。他のメディア媒体以上に、「選択」しにくい、「受け身」になりやすいため。最大の関心は、いかにしてメディアと積極的に付き合うか、ぼーっと受信に徹する状況を最小限に抑えるかだ。

そんな理由でラジオは随分と熱心に聴く。FMだけでなくAMてのも案外穴場だ。その他、自分の生きている世界から遠い世界にできるだけ近づこうとする。例えば、フランスの国際ラジオ放送を聴いてみる。テレビもラジオも変わらないのかもしれない。けれど、自分の場合はとても視覚が利く人間なため、視覚に迫られると一気に想像力を使わなくなってしまう。その他、新聞も好きだ。特に、海外の小さな国や島のウェブサイトもおもしろい。今ハイチはどうなっているのか、コートジボアールの内紛はどうなったのか、生の声が聞ける。日本の地方紙や、曲者として鼻つまみものとなったアラブ系通信のサイトも興味深い。私の場合、フランス語を勉強しているので、フランスの新聞、中道右派の新聞と左派の新聞のページも勉強がてらチェックする。

もちろん、自分は結局はメディアを「選択」しているだけで、オールマイティではない。ちっとも能動的ではない。情報の信憑性などは永遠にクリアではない。ものごとを観察したジャーナリストや企業のスタンスが大きく反映されてしまうかもしれない。けれど、「積極的に受け身を選択する」のと、「受動的に受け身に甘んじる」は随分と大きな差なのではないかしら。

それを言い訳として、自分が好きな社会面や国際面ばかり読まないように、きちんと経済面や企業面も読みましょう、わたし自身よ。
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by Haruka_Miki | 2006-04-18 00:00 | 五感

属性を考える・東京都住民

私は東京都住民だ。住民票はひとまず東京都以外に置いたままなので、東京都民ではなさそうだ。ええと、ここで声を大にして言いたい。東京という街が好きだ。私にとっては、世界の名だたる都市のどれよりも、飛びぬけてハイカラで独創的で落ち着く街だから。

イエローキャブと高層ビルで埋め尽くされ、セントラルパークだけは木々に囲まれて小さく四角い青空が抜けるニューヨーク。重厚な石造りの建物と荘厳な建造物が街の至るところに散りばめられ、絵になる街パリ。人がひしめき合い、驚くべき高さの高層タワーがにょきにょきと建つその合間が、彩り鮮やかな看板ですっかり埋め尽くされた香港。白塗りやレンガの建物にカラフルなドアが映える地区や、川から望むビッグベンのコントラストが素敵なロンドン。コロニアル建築に赤オレンジの屋根が映え、夕暮れ時にはウォーターフロントに高層ビルがうっすら浮かぶシンガポール。そのどれよりも、やっぱり自分が住んでいる街はご自慢の街だ。

今日は両親と東京散歩をして、夕方から海外からの知人の東京案内をした。両親と代々木公園周辺を歩いて、表参道の方向に抜けるように歩く。原宿や渋谷という新しい街の隣の代々木の森の緑は深い。黄色やオレンジ色のポピーが行儀良く植えられ、行き交う自動車の騒音を柔らかくする。東京はこれだけの大都市なのに、緑が多い街だと思う。皇居なり公園なり神社なり、国の規格として緑が多く残されているのかな。

知人とは、新入生歓迎会で賑わう渋谷で待ち合わせをした。知人は浅草・上野周辺の宿に泊まっているという。小さな家々が軒を連ね、下町の雰囲気を満喫しているらしい。江戸っ子の粋を少しでも感じているのか、知人は嬉しそうだ。そんな東京は一面でしかない。だから渋谷で会うことにした。思惑通り、様々な髪型、髪色、ファッション、表情をまとった人が行き交う。センター街という社会学的面白いエリアを抜けると、ご婦人達が集う文化村はすぐだ。井の頭線に乗って武蔵野に近づくと、そこはまだ東京だけれど、住宅街の東京の顔が見えてくる。焼き鳥屋に喫茶店、ジャズバーに各国アジア料理屋が集う。

東京という街は多様で幅広い街だ。アジアと西欧かぶれと伝統とモダンとパンクと堅実さと兼ね備える。生活空間なのだから、東京の住人として、東京再考を始めたし。「衣」、「食」、「住」という人間の根本を考えたときに、東京という街は切っても切れない。アイデンティティの問題として、欠かせないポイント、それが東京なのだ。
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by Haruka_Miki | 2006-04-16 00:00 | Nippon

田舎パンと香の金曜日

珍しく早く仕事が終わった。普通ならば、誰かに会いたいところだけれど、たまには外で油を売らずに、早々と帰路につこう。そんな夜も悪くない。我が家で小さな香でも少し焚いて、温かいお茶を片手にクッションにゆっくり身体を沈めたい。今夜はそんな気分だ。映画でも観たり、お風呂で本でも読んでゆるい金曜日を過ごそうと決めた。

家に入って冷蔵庫をのぞいてみると、カジキマグロとレタス三枚、ミニトマト、アルファルファ、長葱、キノコを発見する。むしょうに美味しいパンが食べたくて、わざわざ遠回りして気に入りのパン屋で帰り道に調達した田舎パンが今日のメインになりそうだけれど、カジキマグロをバジルでソテーしてパンのお供にしてみよう。

相性は抜群で、パンはほどよい歯ごたえで中はしっかり密度が濃い。パンらしいパンが私は好きだ。ただ脹らませ粉でふわふわと、必要以上に膨張したパンでなく、固目のパンがお好みだ。絶対にご飯党の私だけれど、たまの美味しいパンは別格だ。

映画を観る。一本目は、記憶を消去するカップルの話なのだが、こういうのは結局口で言うと急に映画のよさが色あせるものかもしれない。あらすじ以上に脚本が乙で世界にぐんぐん引き込まれる。テンポがよく、混沌とした雰囲気を漂わせながら極めてロジカルに話が展開する。二本目は西部開拓時代の地獄と呼ばれた町の話。二本とも個性が強い作品で、見終る頃には私は田舎パンをすっかり食べつくし、香はほのかな香りを残して姿はすっかりなくなっていた。

田舎パンとお香のゆるりとした金曜日、ゆっくりした夜を過ごすと土曜日の早起きもへっちゃらだ。窓を開けて大きく深呼吸をする。おはよう!
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by Haruka_Miki | 2006-04-15 00:00 | 五感

今を生きる

最近考える。何をしたいの?何を一番成し遂げたいの?
生まれてきたからには絶対したいこと。それは何。
自分に聞いてみて。聞いてみよう。

毎日が楽しく充実しているほどに、その状態を冷静に受け止めたい。
現状に満足したら、そのときは注意報がピカリ点滅。
喜びをかみ締めつつ、疑いを止めない人生を送りたい。

Do one thing every day that scares you.
~Eleanor Roosevelt~

自分て人間を覆すこと、びっくりさせるようなこと、毎日しでかしてる?
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by Haruka_Miki | 2006-04-15 00:00 |