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パリ発 五感の穴

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十三回忌

祖父の十三回忌と曾祖父の二十五回忌があり、家族で集まりお寺に行った。普段と言えば、宗教とは全く関係がない生活をしていて、一つの宗教でも宗派が何たるか分からず、執着もない。クリスマスもお祝いするし、幼い時にはお宮見舞いに七五三もしたし、今日などはお焼香のやり方もやっと理解した状況である。つまり、私にとっては信仰と言うよりそれは慣例・習慣、また家族の集いというニュアンスが大きい。祖父と曽祖父が仏教の方法で弔われたので、亡くなって月日が経つ今も、故人を想う時にその場がお寺だというところである。と断言してしまうと、様々な宗教を強く信じている方の気分を害しそうだが、それぞれの信じ方があるのであれば、これも一つかと。

自身の信仰がこれですと断言できるようなものはないのだが、宗教を信じる人間の在り方には人一倍の興味がある。高校時代に過ごした地にユダヤ教のシナゴーグが多くあって、当時まだ小学生だった妹の友達は、放課後遊ぶ前に必ずヘブライ語の宿題をしていたのが印象的だった。私が知るプロテスタントの教会は、礼拝を行う時以外は、公文教室やピアノ教室の発表会の場として貸されていた。宗教を超えて、どちらかと言えばコミュニティの集会場のような意味合いを含んでいたのかなと今になれば思う。

そうしたことを背景にしての祖父の十三回忌である。祖父が信仰深い人だったかは分からぬ。とりあえず、十二年経った今、祖父の為にお坊さんがお経を唱えてくれて、家族が集って祖父のことを想っている。祖父のことを皆で話すのはとても懐かしく、一緒に過ごした楽しい時間を思い出す。この住職さんというのが、素晴らしいお説教をする住職さんで、いっそ噺家になったらいいのにと思う。雄弁家なだけでなく、それこそ米国のピューリタンの話をされたり、様々な分野にオープンで勉強家であることが察しられるところだ。

真理が一つの信仰に凝り固まってしまうことの弊害は、他の信仰の人との対立だったりするのだと思う。また、ある教えが真理になり、自分で何かを考えるよりは、全ての価値判断がその真理に基づくものというのこともあるかもしれない。だからといって、無関心というのもちと寂しい。宗教がタブー化される世界だけれど、宗教はタブーだとだんまりを決め込むよりは、ある程度様々な信仰の教えに、耳を傾けてみるほうが、よっぽど他者理解につながるのではないかなと思った。そう、様々な信仰に向けてで、ある程度の冷静で客観的な立場を自分が保てるのであれば。
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by Haruka_Miki | 2007-06-30 00:00 |

美食的旅

f0079502_16444766.jpg実は台北からとんぼ帰りしたところである。アジアに住む良さは、当然ながら他のアジア諸国が近いことだ。突然地域主義的な発言になってしまうが、どうもアジアの国々を旅すると、変な気疲れがなく、米国で思春期を過ごし、西欧的な趣向や思考が身についていたしても、自分が何だかんだ言って、まぎれもないアジアの民であることに気づかされるものだ。なんとなく似たニュアンスがあり、けれど異なる点も多々あり、その両方がある程度の刺激と心地よさにつながるのかなと思う。

さて、短い滞在は、故宮博物館を訪れたり、お寺を巡ったり、初めての台北は観光スポットを手堅くおさえたものだったが、やはり旅の醍醐味と言えば、その地のものを食べることにある。例に漏れず、私も麺を楽しみ、小龍包に舌鼓んだ。食は各文化の髄であり、「食は食ではなく、それ以上のものである」とちょうど東京に戻る機内で読んだNewsweekの特集記事のキャッチフレーズはまさにその核心を捉えているかもしれない。

f0079502_16451317.jpg台北には、日本のデパートが溢れ、馴染みの牛丼屋や日系のハンバーガーショップ、関西のとんかつ屋チェーンなどが街に点在する。日本食の人気は健在のようである。それはさながら、日本にいて、ニューヨークのドーナツ屋やシアトルのコーヒーショップ、フランスのミッシュラン三ツ星レストランを目にするのと同じような状況であろう。人々の趣向、ニーズは、それがマーケティングに誘導されたものであっても、街を歩くだけで手にとるように分かる。

その地に土着な食を見る時、口にする時、このグローバリゼーションの時代にも、やはりその地の食は深く根付いていることに気づく。東京に居て、様々な文化圏の料理が楽しめる。台湾の料理人が創る台湾料理も食べられる。食は、人間の移動以上の速度で国境をいとも簡単に超える。が、その味、そのエッセンスは、やはりその土着の地でこそ生きるように思えてならない。

美味しさは、日本でも分かる。けれど、美味しさの奥にあるものは、時に旅を実際にしてみないと分からない。その文化圏の人々と空間を共にしないと完全には分からない。食はその食べ物そのものだけでなく、その奥に根付いたものであるなら、美食の旅、というのは軽い旅の仕方ではなく、案外奥深いものなのかもしれない。いつだか社会学の授業で読んだ、辺見庸さんの「もの食う人々」を本棚から引っ張り出してみて、これをまた自分も実践していきたいと思うのだ。
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by Haruka_Miki | 2007-06-23 00:00 |

NYC Anachronism

f0079502_23382845.jpg Each city has a charm of its own, a noise of its own and a smell of its own. Normally, the beauty, the serenity, the aroma and all the positive factors make the city so attractive while humans are wimsy when it comes to what makes the remembrance of a place special; our five sense remembers not only plesant side of the city but even the negative sides.

One fairly early morning at work, I had a call from my colleague in NY. We attended the same analyst program two years ago and how joyful it was to study and reserach during the weekdays and go out the city during the weekends! f0079502_2323147.jpg Oh I miss that slightly pollluted air(sorry people but I really felt so), the crowds, the humid and burning hot subway, the rectangular blue sky I saw when I was laying down on the grass of the Central Park and of course, the Vintage shops in Lower East Side!

A few days back now, I got a birthday present to my friend, a typical New Yorker now living in Tokyo as long as fifteen years or more. He loves Japan and he can speak frankly and harshly about his native land. Well, that is what New Yorker does. Still, he was quite amazed when we run to the "We Are Happy To Serve You" cup on the other day. It is a ceramic version of a paper cup, a typical cup in every coffee shop on the street corner of NYC.f0079502_23495219.jpg

During the stay in NYC, I really didn't feel I fitted to the city. I didn't feel much joy going to the edgy bars and diners. I missed Tokyo where the tradition and the modernity crossed. That was the image I got and I didn't want to work in NYC forever. And now, I miss it. How egoistic is that? The nostalgia always is a mix of ambiguous feelings, bitter and sweet memories, homey and lonely feelings, and amazing and depresessing experiences.

Maybe more negative the image or memory is, stronger you get obsessed with the place after all!
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by Haruka_Miki | 2007-06-20 00:00 |

川の流れは作られるものか、作るものか

仕事をしていると、どうも井の中の蛙になりがちなことを憂慮している。当たり前に使っている言葉も、また関心範囲も、ある程度は方向付けられていくのは仕方がないことだし、それを人は専門性と呼ぶだろう。それに甘んじることなく、週末は平日と異なるできるだけ視野を広げようということで、国会議員秘書の方とお茶をする機会を得た。アメリカからの政治研究者でもあり、国政をある意味、この国の国民である私より近い位置で見ていて、何を感じているかに関心があった。

様々な事象について意見を交換したわけだが、やはり気になるのは、私達国民の市民意識の欠落、一人ひとりの政治関心の基本的薄さ、政治はお上の為すこと、という投げやりさというか、無関心さである。それは、おそらく私にも言えるわけで、選挙にはもちろん出向くが、それぞれの党のマニフェストなり、政治家の信念なりはどうも見えにくく、よく分からず、自分が知りうる範囲の知識や「雰囲気」で一票を投じている嫌いもある。そして、基本的にビジネス界では、政治的な事象に触れることはもちろんタブーで、それについて議論する場などは、日常生活では殆どない。

一応政治学に身を置いた人間としては、経済活動に目をやるのと同じように、自由民主主義とは何か、を考えていきたいなと初心に戻った次第。まずは、定番丸山真男の「日本の思想」を読み直すところから始めるべき?
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by Haruka_Miki | 2007-06-17 00:00 |

古くを美しく住む

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海に行きたいなあと思っていたら、昨年行った桂浜の写真が出てきました。とはいえ、海まで遠出するのも何なので、とりあえずベランダに椅子とPCと本とコーヒーを出してエンジョイ日曜朝のゆったりとした時間です。

さて、現在の住まいは素晴らしい住み心地で、私の引きこもり度を確実に引き上げているのですが、そんな私は引越しをよくしています。たいがいは必要に駆られて、それ以外は気分でなのですが、そんな中で友人に教えてもらった東京R不動産のサイトは、引越しを特段考えていない時にも、非常に素敵で冴えていてチャーミングなサイトです。ただの間取り図とお値段に留まらぬセンスのよさです。

このサイトを見えていて思うことは、素敵に暮らすか否かは、アイデアと腕次第なのだということをつくづく考えさせられます。基本、古いマンションなどのリノヴェーションを行い、そうした物件を貸したり売ったりしている不動産屋さんなのですが、いわゆる億ションというものは少ないですし、逆に億ションの場合は、郡を抜けて馬鹿高い超高級マンションだったりするので、かえって見ていて野次馬根性を誘うものです。

以前このサイトで、神楽坂にある神社の鳥居をくぐった、まさに境内の中にある一軒家が貸しに出されていて、古いながらも茶室まで備え付けてあり、友人とこれを借りない手はないと多いに盛り上がったものです。結局、その一軒家は現在小料理屋さんになったようですが、こういうリノヴェーションがどんどん盛り上がったら、面白いなと思う今日この頃です。

少し前に、両親が家を建て直す話をしていたときに、古民家の移築を考えていた時期があったようです。現在の東京都内だったら、それもちょっと厳しい話ですし、まず古民家の移築には、大黒柱等の総入れ替えが必要になり、莫大なコストがかかるでしょうが、東京がそんなリノヴェーションで溢れた街になったら、それこそ世界に誇れるのになと思うのです。浅草でなく、原宿でなく、六本木でなく、ただ住宅街を歩くだけでも絵になる、そんな町、素敵じゃないでしょうか。おそらく、自身が異国に行った際に、観光スポットと同じだけ、そうした裏道を好むからかもしれません。

石の文化ではなく、木の文化である日本の建築、その上地震が多い土地柄、挑戦は数多く、そのために建物の寿命も、ヨーロッパのそれに比べたら極めて短いのが現状のようです。でも、なんとなく寂しいです。懐古主義だと思うのですが、どうにか古き美しき建築を育て、守って、進化を遂げていく、そのような街づくりはできないものでしょうか。それは、大企業によるシティプランが当然の今日で無理な話でしょうか。

と、父が久々に一時帰国するのを前に、また父の日を前に、父の好きな番組「改造劇的ビフォーアフター」的な発想をした次第です。
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by Haruka_Miki | 2007-06-15 00:00 | 経済的営み

LOHASの戒め

LOHASという言葉が叫ばれて久しいのだが、元々それがマーケティング用語として登場したことが象徴するように、その概念自体、商業の賜物であるのかなと思っている。本気で自然派なのであれば、スタイルどうこう以前に、合成界面活性剤を使用した商品は徹底的に使用しないとか、美しいエコバッグを新しく調達しなくても、おばあちゃんの桐ダンスに眠っている、風呂敷を探し出して使うとか、かなりのストイックさと環境に対する生真面目さを要する。ところが、LOHASと言う際に、そこに頑なさはなく、ゆるさの中で環境のことを考えることの格好よさが多分に先行する気がする。

LOHASなライフスタイルを送る私が素敵、というある種のエゴイズムと、それはあまりにもシニカル、純粋な環境・社会愛の狭間というのが、独断と偏見によるLOHASの意味合いである。かくいう私も、現代文明のビバ資本主義の申し子の一人であり、中でもお金を融通することでお給料を頂いて、なおかつそのまさにLOHAS的な生活が好きだと自認している身としては、これは自身への戒めでもある。

こんなことを考えたのは、私自身が本日行ったヘアサロンでのことである。今までは、あまり色々を考えず、髪の毛を切り、パーマをかけ、色を染めるという行為を当たり前に行っていたわけだが、母親の怖い話しを聞き、日常だけでなく、ヘアサロンでも気をつけようと思ったことがあったからだ。母親の怖い話しというのは、合成海面活性剤を使用し続けた妊婦さんの羊水が、泡だらけだったという本当だったらぞっとする話しを聞いたことにある。以後、家ではスキンケアもヘアケアも、一環してAubreyというオーガニック製品を使うように努めている。香りは不思議だけれど、慣れてくるといいものなことに最近ようやく気がついた。

というわけで、今日は三年目の浮気をした。といっても、ただヘアサロンを変えてみただけのことであるが、馴染みのスタイリストさんでないところに行くというのは、どうも自分でも気の引ける行為である。が、髪の毛を暗くする時に草木染めに近いものをしたかったので、ここはそれを言い訳に新たなサロンを開拓だ。AVEDAのヘアカラーは93パーセントが自然のもので、ヘナほどまでは行かずとも、100パーセント化学物質に比べたら随分と有難い。銀座の真ん中で、自然派だと言い放つこと、これこそがLOHASな自分のエゴと満足の狭間なのだが、それでもやっぱり気持ちがいい。お陰様で、全身が決して美しいフローラルな香りではなくても、自然の草木の香りがほのかにして満足である。

なんだかんだ、自己批判をしながらも、LOHASな生活が続きそうな予感。
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by Haruka_Miki | 2007-06-10 00:00 | 経済的営み

Effect of Le Corbusier exibition

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I took a level check test for French yesterday. While I waited for the test, I had a chance to go to an exibition of Le Corbusier running at Mori. The exibition covered not only the arcihtectural works like Villa Savoye in the suburb of Paris where I visited a few years ago but also his paintings. It was new to me to know that he loved paintings so much and he first studied painting rather than architecture. Even after he became an architect following a suggestion given by his teacher, he spent his morning painting. Having a strong passion in something apart from his job must have had some positive effects to his works as an architect, I bet.

f0079502_10425928.jpgJust like Le Corbusier, I agree that being into something apart from your job gives a positive effect to your work even though on the surface, they don't relate at all. For me, art has always given me a new dimension to the daily life and helps me to move on. Being around an art actually stimulates me to do something different.

As I was stimulated by all the films in French in the exibition, I then run to French language school where I took a test to check my level. The teacher was a bit perplexed because I could speak okay but didn't have much training for grammer. Normally, Japanese have tendancy to know grammer so well when they are too shy to speak out. It is pity that I have to go back to grammer for awhile but hopefully it helps me to brush up myself. The art exibition certainly helped me making my mind to have a formal language training when I was too lazy to do so for quite some time.
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by Haruka_Miki | 2007-06-08 00:00 | 芸術

「建築家を見たらひっぱたけ」

f0079502_1012957.jpg観たい映画がある時は、できるだけ封切り最初の回に行くようにしている。ちょうど、建築家フランク・ゲーリーと彼の作品に関するドキュメンタリー、「スケッチ・オブ・フランクゲーリー」が今週始まったので、土曜だと言うのにきちんと早めに起きて、朝の会の映画に出かけた。

フランク・ゲーリーの作品に初めて触れたのは、多くの人がそうであるように1997年にオープンしたスペイン・バスクの地方都市ビルバオのグッゲンハイム美術館を雑誌で見た時である。当時アメリカに住んでいて、ピカピカで大きいながら、どれも同じような家が立ち並ぶ平和な郊外の住宅街の建築を見て、ティーンネージャーなりにつまらないなと思っていた。そんな時に雑誌を手にして、目からウロコ、になるのもわけがない。

ビルバオのグッゲンハイム美術館に足を運びたいと思っているうちに、時間だけが過ぎてしまっている。この映画を観ることで、少しでも行きたい気持ちを抑えることができたらという思惑とは完全に外れ、むしろ今すぐにでも飛びたい衝動に駆られている。

ドキュメンタリーはフランク・ゲーリー氏自身とその周囲の仕事仲間、芸術家などの友人、美術評論家などのインタビューで構成されている。通常、建築を見る際に、建築家のあれこれを気にすることはないので、映画という方法が建築に新たな見方を提供してくれた。

色々と心に残る話しは多かったのだが、その多くは彼の独自の世界に魅了された人々の言葉であり、彼自身のモットーのようなものである。一人の音楽家は言う。「私は建築家を見たらひっぱたけ、と言われていた。とにかく、彼らが建てたものをみていると陰気な気持ちになるんだ。大きな非が彼らにある。けれど、フランク・ゲーリーの作品を見て、その考え方が一新された。」他の芸術家はこう言う。「彼の作品は大きすぎて、ものすごすぎて、アーティストにとっていかがなものかという批判がある。けれど、それは彼の責任じゃない。それだけの器に見合った作品を、アーティストは作っていけばいい。それだけのことだ」

私は、理系の父のように物理学的に何とか、という思考が欠落しており(ちなみに、ある時、私が木と金属でできたアクセサリー入れをプレゼントにもらってきたら、父は素敵だね、という見方ではなく、この木は質感から言っておそらく何の木だとか、ここの金属は何で削ったに違いないとか言い出した。親子とは思えない!)、建築と言った際も、極めて感覚的な見方しかできない。けれど、建築は芸術的であるのはもちろんいいが、建築は物理的にそこに「立っていなければならない」。そこに必要な物理学的マインドと、持ち合わせの芸術的センスが備わるというのはものすごいことだとただ感服する。

映画では、フランク・ゲーリーが建築家仲間からは浮いた存在で、いつも芸術家とばかり一緒にいたことに触れられている。また、彼はユダヤ人なのだが、ユダヤ人と明らかにわかる苗字から、大人になってゲーリーに改名したというエピソードも興味深い。明るさだけが天才を天才にするわけではないようである。映画で描かれたフランク・ゲーリーは、一つの発想や派閥、スタイルに囚われない「勇気」と、挫折や差別などの困難を乗り越える「強さ」を持った、置かれた状況を誠に楽しみ、バネにする素敵な変人であった。

Apple Trailer: "The Sketch of Frank Gehry"
http://www.apple.com/trailers/sony/sketchesoffrankgehry/trailer/
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by Haruka_Miki | 2007-06-03 00:00 | 芸術

おばあちゃんとこの旬の魔法

「うちのとこのはね、ハウスじゃないのよ。だからそりゃおいしぃよぉ。」
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最寄り駅の前に、たまに店を開く自家農園のおばあちゃんの口癖だ。小学校の用務員さんが使うような台車に、自分の畑でとれた旬の野菜を山ほど持ってきては、帰路の私のような者の興味を引いている。大体、いつおばあちゃんがそこに来るのかも、おばあちゃんの体調と気分次第なので、便利かと言えば不便であり、あてになるかと言えばあてにならない。品揃えも、その日によるので、今日はキュウリが食べたいと思っても品切れか、そもそも今日はキュウリの日でないということもある。

それでも、道行く人が次々におばあちゃんの野菜を買い求めるのは、そこに郷愁を想うのかは分からぬ。おばあちゃんの人柄に惚れているからかもしれない。今日は、百パーセントそら豆の日であり、店をあげて、というかおばあちゃんの台車にはそら豆しかない。そのそら豆が、自転車で通る横目にも、美味しそうなのは明らかで、急きょそら豆を購入する。量り売りで1キロ五百円。腰が曲がった素朴な野菜のおばあちゃんは、そら豆を優しく袋に入れてもたせてくる。次にやってきた近所のおばちゃんは、トマトを買いにきたらしいが、そら豆の旬の香りを目前に、やはりそら豆を手にして帰っていった。旬の野菜のパワーと、おばあちゃんのパワーを前に、今夜はご近所のそこここで、そら豆が食卓にのぼっているに違いない。

春夏秋冬、季節に関わらず食べたい食材を食べたい時に食べられる便利さに慣れてしまった私にも、旬のそら豆の美味しさはすーっと入っていく。ただシンプルに、焼いて塩で頂くだけで、美味しいやら、初夏を感じるやらで、すっかりご満悦である。
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by Haruka_Miki | 2007-06-01 00:00 | Nippon