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パリ発 五感の穴

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混沌ノートのお陰です

探し物をしていて、部屋の机の引き出しを開けたら、探し物は見つからず、代わりに大学のノートが出てきた。読んでいる間に段々面白くなってきて、探し物のこともすっかり忘れてしまった。(似通った日常のシーン:大掃除をすると必ず思い出の品々に思いを馳せ、なかなか掃除がはかどらない。)

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美しく理路整然とまとめられたノートかと言えば、かなしいかな、これ以上の混沌はない。筆跡うんぬんでなくて、最初の10頁は「簿記システム論」という不可解な授業名(受講したはずだろうに。何のクラスか定かでなく。自身の学部のものでないことは決定的)、その後は「仏思想史」(デリダという文字が次の10頁には多い)、その後は「哲学史」(今度はヘーゲルらしい。記憶にあらず。)、最後に副ゼミのメモだ。ルーズリーフでもないのに、よくもまぁ、色々な科目のメモを同じノートに収めたものだ。拡散しすぎ。

哲学の授業はすっかりお留守になったが、当時わたしは、西欧哲学にある種の隔絶を感じるから、どうも孤独に感じて私には無理だわ、などとしょうもない屁理屈を言って、当時、ドイツ哲学の博士の友人を困らせたことだけ思い出した。そこまで熱心に勉強しなかったことだけは思い出した。今になれば、なんていうもったいないこと。お金を払って時間も沢山あって本を読んで議論することが仕事であったのにと嘆くばかり。

哲学の不勉強を反省しながら、副ゼミのメモのところだけは記憶があると、ここぞとばかりに自身の名誉挽回を図る。当時は、イブン・ハルドゥーンという14世紀の歴史家の本を読んでいたみたい。ちなみに、彼の歴史序説はかなり面白い。面白い点は、当時、しかも西欧でなく北アフリカにおいて、イスラムについての深い考察と、同時に貨幣経済がなぜ力を持つかについて力説しているところが、時代を考えるととても先進的だから。

①イブン・ハルドゥーンの文明論の背景にはアリストテレス政治学がある。(アラブとか中東というくくりを飛び越えた歴史家)
②「文明」の定義を、人間が作る社会の統合原理とする
③多くの共時的、通時的な多くの文明(類型的)の存在を前提とする。→文明は多様であるということではなく、ある文明は上り詰め、他の文明はそうではない。

例)田舎の文明 対 都会の文明 = 「移動」と「定着」の二概念
田舎とは-ドイツ語でいうところのゲマインシャフト、砂漠の遊牧民ベドウィンみたいな(日本ではちょっとピンとこない)
都会とは-ドイツ語で言うところのゲゼルシャフト。定住民が基本。(これは文化的なものね)
「移動」の文明においては、拡散を防ぐため連帯意識が不可欠であり、そこで政治の原理が必要。「定着」の文明においては、文化装置としてのイスラム諸学があり、都会においては経済の原理が大きくなる→貨幣と技術の中心であるということ、よって都市が農村を支配。

二つの対概念としての文明を束ねる働きとしてのイスラム。そして、その中でやはり一方の文明を優位にしたてる貨幣資本主義。ゼミの先生が言いたいいこととしては、いかにイブン・ハルドゥーンが先進的であり、イスラームの文化が元々資本主義的思考を持ち合わせたものであるかというところにつきるみたい。ちょっとこじつけな気もするけれど、先生の情熱が、私の無秩序なノートからも読み取られる。なにしろ、やっぱり14世紀にこうした視点はとても興味深い。

混沌ノートがまだ我が家に保存されていたことは驚きなのだが、これも何かの思し召し、実は私は歴史序説は全4巻のうち1巻しか読んでいない。もう一度哲学も歴史もちゃんと本を読んでみよう。
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by Haruka_Miki | 2007-11-28 00:00 | 経済的営み

虫の目の高齢社会

祖母がグループホームというところに入って数週間が経つ。両親が仕事でどうしても近くに居られないので、少なくとも離れている間は祖母が安心していられるところということで入居をする運びになった。娘である私の母には相当の葛藤があるみたいだ。年を重ねた家族を真っ向から受け止める人にしか分からない苦しみだと思う。それまではずっと両親宅の近くのマンションで立派に一人暮らしをしてきていたが、やはり母も海の向こう、孫の私達も電車で何十分だと私達家族も心配。元気とは言ったって米寿も近い。やはり、美味しいアジのフライのお酢和えや、プリンをちゃちゃっと作ってくれた頃とは、勝手が違うもの。
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ここ数ヶ月で、母は随分とグループホームに関する知識を蓄えた。私も話を聞くうちに、多様なサービスや団体があることが分かった。主催者がNPO、私企業、市区町村の認定を受けた独立法人など違うと、ホームの雰囲気も全く違う。ちなみに、グループホームというのは、老人ホームとはちょっと違うみたい。現在、祖母が入居したところは、民間のグループホームだ。広いリビングがあって、個室もあって、個室には自分の電話も引ける。個室ごとに、住所も分かれている。共同のリビングとお世話をしてくれる人たちがいるアパートみたいなもんだ。もちろん、祖母の自宅のマンションにも、家族の私達が付き添えばいつでも帰れる。だから、その辺気軽に捉えつつ、のグループホームだ。

ちなみに、こういうグループホームに入る際には、ご老人は市区町村から派遣されたスタッフの調査を受けて、このおばあちゃんは要介護1とか2とか、頭の冴え具合を細かにチェックされる。最近は、ご老人も多いから、なかなか介護の必要度合いが多い認定は出にくいらしい。では困ったかと言えば、裏技としては、介護の必要度合いは場合によっては低い方が案外いいということ。ホームでお世話をする側からすれば、もちろん軽い症状の人の方が大歓迎なわけだ。それを証明するかのように、祖母がご厄介になっているところも、皆からだはいたって元気な人のみだ。

ここに入るまでは長い道のりだった。特に、母の葛藤はどうしても消えないようだ。でも今まで誠心誠意やってきて、今でも電話で毎日やりとりしているのを見れば、母には絶対一人で背負って欲しくないなあと思う。介護は、年を重ねた本人、そして間違いなく家族両方にとっての最善の道を模索することなのだと思う。グループホームというのが祖母を不幸にしているのかと言えば、そんなことはない。どれだけ家族の気持ちが伝わるかな気もするのだ。幸い、祖母ほど感謝の気持ちを絶やさない人をこの方見たことがない。電話をするたびにありがとうと言い、おばあちゃんは皆にこうしてもらって幸せですと言う。それって、お世辞とかおべっかとか、その場を繕うということがあまりできなくなった祖母にとって、本心なんだと思う。

人が、おぎゃあとこの世に生を授かって、育まれて、その世代のバトンタッチは、老若男女、持てる人持たざる人、皆に平等にやってくる。それをどうやって受け止めて、どうやって助け合うか。とりあえず、高齢社会をどうするかという鳥の目よりも、母に重圧がかかりすぎず、祖母に楽しく元気に過ごしてもらうにはどうしたらいいかという虫の目でしか、私の場合高齢社会は見つめられない。
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by Haruka_Miki | 2007-11-26 00:00 |

言語、それ以上

アンダーワールドのライブに足を運びました。人が沢山いるところに行くのが億劫な性質ですが、週末〆切で目処をつけたかった課題も上がったので、出かけることに。こういうのは、音楽が大好きな中学時代の友達Kちゃんの十八番。音楽フェスティバル系統のものではチケットの手配から当日のことまで任せっきりで、いつも抜群にいいタイミングで声をかけてくれます。ありがたいなあ。あいにく、私は彼らの2002年以降の曲はよく分からないので、Trainspottingで使われていたBorn SlippyやRez、Cowgirlが非常に懐かしく。

こういうイベントに行くと、私の場合、とかくビジュアルエイドに目が行きます。大きな画面で、曲の合間合間に入る映像。強烈なブリティッシュ英語で語りかける男性。男性の声は聞こえにくいので、映像の下には字幕。日本の公演には関係なく、英語の字幕が入ります。その意味を聴衆の全員が分かっているか。多分皆完全には字を追えないのです。しかし、それぞれの聴衆が十分何かを感じ取っているはずです。

話しは変わりますが、日本人の作家の本を、外国人の友人にあげるということになり、永井荷風の「墨東奇譚」の訳本がそのうちの一つでした。サイデンスティッカー先生の訳です。人にプレゼントをしてから、自身も英語版をちらっと読んでみたのですが、大先生に向かって不仕付けは承知で言ってしまうと、どうも違うのです。あの永井荷風の語り口調、噺家の訓練を積んだり、とかく印象的な文語の口調は、英語には置き換えにくいのでしょうか。

本をあげた友人は、仕事の合間に趣味でクリエイティブライティングのクラスを受講していて、授業のうち一つとても面白かったトレーニングについて教えてくれました。それは、何語でもいいから、自分が全く知らない言語の詩をインターネットなどで見つけてきて、辞書は使わず、雰囲気を感じ取り、訳をしてみるというものです。頼るのは、自身のインスピレーションのみ。これが案外当たるんだそうだから不思議です。辞書も使っていないのに!

異文化との出会いが多くなる分だけ、言語のバリアを感じる場面も自ずと増えると思うのですが、そもそも言語の前提となる文化がまた多様なら、互換性を考えるのもさっさと諦めて、その文化をどっぷり心で聞いてしまえくらいの心意気がありなのかもしれません。

言葉の奥深さを感じると、それ以外の手段、それが映像なり音なり、肌触りなり、香りなり、もうそのレベルでの言語はよっぽどストレート。昨夜のイベントなども、音楽や映像を通じて、あれだけの多くの聴衆を熱狂させるわけです。第三者の媒介人も必要ありません。

その中で、翻訳というのが、実際にはとてつもなく難しいことだと最近思います。自身が感じたことを他の言葉で書いてみて、母語で言いたいことと、他の言語で言えることの範囲が違うということに対する消化不良を感じるのとは全く違う種類の困難です。

趣味で翻訳の勉強をしてみたいのですが、その前に前出のクリエイティブライティングの授業を受けるのもありかと今思案中です。

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(写真の小学生達は、その後通りすがったおばあちゃまに細かく道を教えてあげていて、よいこでした。)
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by Haruka_Miki | 2007-11-24 00:00 | 五感

さよならこんにちは

一週間我が家に居候をしていた友人二人を成田まで送ってきました。しばしの別れ、達者でなぁ。二人がいる生活のリズムをつかみ、互いを補い、大人数で暮らすことに段々慣れてきていたので、当分は調子が狂いそうです。いやあ楽しかったです、そして今は少し寂しいです。帰り道に、前から行ってみようと思っていた取手アートプロジェクト2007に行ってきました。

取手アートプロジェクト、1999年からやっているとのことですが、私は今年、というか先月までこういう活動自体を知りませんでした。いかに自身が小さな世界に生きているかを今一度思い知らされます。そうです、私にとってはニューヨークの友達二人の方が、精神的には取手のコミュニティよりも近いというのが現実で、そのことに愕然とします。

このアートプロジェクトを知ったそもそものきっかけは、岩井優さんのブログです。その時は、ちょうど9月に予定していたイランへの旅のことで調べ物をしていて、岩井さんのブログにご縁がありました。その岩井さんが代表をしてらっしゃるSurvivartも、取手アートプロジェクトに「サバイバル・ジャンクション」という企画で参加されてると知り、足を運ぶに至りました。

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声を大にして言いたいのですが、取手はとても素敵なところで、ほっこりするところです。お大根が瓦屋の根の家の二階に干してあったりするのです。蛇足ですが、私の趣味に、ご当地の乗り物に乗るというのがあります。運転手さんと話ができると尚可です。タクシーの運ちゃんは、九州場所の実況中継を聞きながら、にこにこ話をしてくれました。

こちらの企画について色々思うところがあり、とても楽しませて頂きました。その中で二つ考えたことを。やはり、インターネット上で拝見できることと、実際に作品に足を運び、直接話をするというのは、違う次元であることを痛切に感じます。また、強く思ったのは、私はただの一般市民の一人であり、芸術を楽しむ側であることを、いつの間にか当たり前としてしまっていることです。触れ合うとか、考えを共有するとか、ぶつけるとかではなく、静かにありがたみながら受け止め、考えるというのに慣れている気がします。この自身が作ったある種の前提を打ち壊す、素敵な作品でありました。
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by Haruka_Miki | 2007-11-23 00:00 | 芸術

Religional Economics

「宗教と経済」というのが、私が学生時代に好き好んでいたテーマであります。

しばしば、「政治と宗教」は一つのコンテクストで話されることが多いと思うのですが、経済体系が、社会的要素によってある程度色づけられているのであれば、その要素の一つである宗教と経済の関係は切っても切れないと思うんです。

原理主義的マルクス主義、共産主義の国での宗教の弾圧。イスラエルのキブツと労働シオニズム。プロテスタンティズムと資本主義。細かいところで、アメリカドルのプロビデンスの目の意味と背景。

経済的営みって、数式だけじゃわからない。だからこういうトピックが面白いなと思うのです。そして、手前味噌ですがイスラム金融です。3年前ではその世界の人にしか関心をもたれていなかったイスラム金融ですが、今では次なるターゲットと言わんばかりに、イスラム教徒の数が極めて少ない日本でさえも、様々な取り組みが行われようとしています。まさに、宗教ありきのビジネスが今、多々産声をあげようとしているのです。というわけで、19日の日本経済金融新聞の記事は面白いので抜粋します。

『アトラス、リース方式で、不動産投資、イスラム金融を活用。
(日経金融新聞 1面 2007/11/19)

不動産ファンド運営のアトラス・パートナーズ(東京・千代田、平井幹久社長)は、イスラム法に基づく「イスラム金融」を活用して国内不動産に投資する枠組みを開発した。イスラム金融は融資で金利を得る行為を認めていないため、特別目的会社(SPC)が不動産をリースする方式とした。中東のオイルマネーを呼び込む手段として注目を集めそうだ。

 イスラム金融は、イスラム法・シャリアにのっとった金融取引の総称。金利の概念を用いない、豚肉やアルコールなどイスラム法に反する事業と取引しないなどの特徴がある。マレーシアやバーレーン、ドバイなどが取引の中心で英国やシンガポールも環境整備に動いている。日本は銀行法上の制約があるため本格化していない。

 アトラス社はイスラム金融による投資案件の第一弾として、都内の不動産三件を四十三億八千万円で取得。クウェートのブービヤン・バンクが運営するイスラム法に準拠した不動産投資ファンド、ブービヤン・グローバル・リアル・エステート・ファンドが投資した。投資額は明らかにしないが、不動産取得額の四分の一程度とみられる。

 今回の枠組みは二つのSPCを使う。まず第一のSPCが不動産を購入し、第二のSPCに対してその不動産をリースする。ブービヤンは第二SPCに対して投資、第二SPCは第一SPCに対してリース料を払う。ブービヤンが直接取引関係をもつ第二SPCはモノの貸与に裏打ちされたリース取引をしているので、イスラム法上の問題は生じないという。

 今回の案件には、欧州でイスラム金融の実績がある独系ハイポ・リアル・エステート・グループがノウハウを提供した。日本子会社のハイポ・リアル・エステート・キャピタル・ジャパン(東京・千代田)が第一SPC向けに資金提供し、ブービヤンが投資した総額を上回る高額不動産の購入を可能にした。

 アトラス社は第二SPCを通じて不動産の賃貸業務や五年後をメドの売却管理を担当する。家賃収入や売却収入で最終的には年率一〇%を超す投資利回りが期待できると説明している。』

資本主義が宗教を次なるターゲットとして取り込んだのか。はたまた宗教が資本主義さえも取り込んでしまったのか。機会か脅威か。
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by Haruka_Miki | 2007-11-19 00:00 | 五感

東京見物

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ニューヨークから友達が来ている。仕事の同期とその友達だ。東京で何がしたいの、の質問に、返ってくる答えが、突拍子もないから観光案内は、客人の意向に添って決めるに限る。と言うのも、私といえば浅草や谷中や上野や温泉や神楽坂や原宿と考えるが、互いの頭にある行き先で重なったのは、築地と皇居まわり位なものだ。

1.美容院につけまつげのサロン

どこに行きたいの質問に、間を入れずに出てきたのがこの二つ。美容院に行きたいと、初日から私の行きつけの美容院に予約を入れ、その後に本屋に向かい、ヘアスタイルの本を一時間かけて物色。つけまつげてのを私はしたことがないのだけど、まつげのエクステンションをやりたい、ニューヨークではとても高いんだもの、と言う。Spontaneousを売りにしている私(ただの物ぐさ?)にはこっちが目からうろこの東京観光。東京到着の金曜日と、帰国の日でどれだけ見た目が変わるかちょっと楽しみ。

2.甘栗太郎

道を歩いていて異様に興味を示したのが甘栗太郎。赤い紙袋のあれだ。太郎が美味しい美味しいと、地下鉄でほおばるニューヨーカーたち。ちょちょっと栗、落っこちたよ!!


3.ホッカイロ

急に寒くなった週末、ホッカイロをあげたところ、大人気で、その後薬局で10袋位購入スーツケースの重量制限に影響がありそうだけど、確かにホッカイロはいいよね。お腹に貼ったはいいものの、洋服の上から見ると四角くそこだけ浮き出ていて、テレタビーズ状態。

4.パチンコ

一度でいいからやってみたいと言われたのは、パチンコ。やけにこの国の社会学に詳しい。オーケー、入ったことないけどじゃあみんなで入ってみる?栗を食べながらだけはやめてね。

というわけで、珍道中の今週末。どうなることやら。旅の行き先は一つでも、旅の仕方は十人十色。バックパッカーの旅に慣れた私には、カルチャーショックの東京見物だ。
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by Haruka_Miki | 2007-11-17 00:00 | Nippon

新聞のこと

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新聞を読んでいたら、存じている名前がいくつか混じっていた。あることに気が付いた。記事は文字の羅列でなく、それぞれの記者の個性を含む。けれど、たいがいこの個性は秘められ、誰も気づかなくなるまで浄化され、システマチックに配置される。これがとても苦手であった。

大学時代に新聞社の編集局でデスクや記者の小間使いのバイトをしていた時のことである。当時、東京の外信部づけだった数名の記者の方が、今は特派員をされている。外信部は、海外特派員として送り出される前の下積み期間でもあり、特派員を経験して帰国したデスク達の日本での拠点でもある。

デスクがいて、デスク達はそれぞれ専門の担当地域がある。その専門性をふまえて、それぞれ担当の日には、国際面の紙面を取り仕切る。何となく、その日の担当デスクによってレイアウトが異なる。選ばれる記事も異なる。十一時前に記事が決められ、レイアウトが決められ、校正に出され、第一版が刷られ、各部署のデスクが真ん中の大きな白いテーブルに集まってああだこうだとやる。これが第四版まで続く。首都圏から遠い順に、若い番号の版の新聞が印刷され配られる。首都圏に近いほど、直近のアップデートを経た新聞を手にする。

新聞をめくると、記事がとても効率的に紙面に収められ、紙面いっぱいに言葉が埋められている。匿名性は、ニュースを遠い世界の存在にする。すごくすごく遠い。だから、新聞が何となくいやになった。購読しない時期も続いた。一ヶ月前から購読を再開した。記者の名前を見て、その記事が生身の人間によって書かれたものだと再認識する。それが時に、いつだかお世話になった人の名前ならなお更、新聞が5W2Hだけのただの言葉の羅列でなくて、どういう風に取材したのか、やっとリアリティを持つ。

遠のいたから気づいた。記事とはこんなにも人間的なものなのだ。だから逆に怖いのだ。だからシステマチックに、個人の情緒や個性はできるだけ秘められてしまうのだ。秘めると同時に、社の方針は、じわりじわりと反映された文章が紙面を埋める。

近年、様々な媒体ができ、マスメディアの一方通行の時代は終わった。私もあなたも発信できる時代になった。それが可能になった。もはや個性を覆い隠す組織もない。そして、新聞の記名記事のように実名を語らなくても発言が可能となった。このブログがその状況を端的に示す。そこに、デスクもいない。校正係りもいない。刷り直しも自身が望まなければ必要ない。情報は方々に散らばり、氾濫し得る。

記事のモノトーンさが苦手だ。事実の羅列というのに胡散臭さを思う。編集というプロセスの客観性に疑問を思う。だけど、これだけ様々な媒体ができた現在だからこそ、新聞の記事は今まで以上に重要なミッションを持つようになったようにもおもう。苦手な中に、記名記事という個人を見出し、記事のリアリティをそれなりに理解し、そして今、記事で苦手だと思っていた点の良さも大切さもなんとなく分かるのだ。
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by Haruka_Miki | 2007-11-13 00:00 | 五感

ワールドワイド肉詰めピーマン

ホームパーティという響きはいいものです。ポットラックパーティていうのも素敵です。ポットラックでは、皆が一品持ち合うわけなので、ホストにも負担がかからないですし、何よりインドアな私の心をくすぐるものです。

そして、持つべき友は、夏ならお肉とか色々てきぱき焼いてくれるバーベキューマニア、冬なら鍋奉行のお友達が一人いると嬉しい限り。すみません、私はなんだかんだ言って食べる役に徹している気がします。

土曜日は、友人宅でウズベキスタンのスープと肉詰めピーマンを食べる会がありました。会合の趣旨はそこではなかったようですが、私にとっては間違いなく肉詰めピーマンの会でした。
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なんていうか、この肉詰め系統の料理に目が無いのです。なぜでしょう。なんとなく、ひき肉てのが家庭的なイメージをかもし出しているからかもしれません。温かい気持ちになるからでしょうか。作ってくれた人のことがすごく目に浮かぶからかな。日本のしいたけやピーマンの肉詰めはもちろん、フランスの家庭料理トマトファルシーの美味しさは衝撃的です。ホームステイ先でよく出ていた定番メニューなのですが、私は三人の子供たちと競い合って食べておりました。大人げなし。フランスのトマトファルシーはお米が入っていて、大きなトマトの上にパン粉をまぶして真っ赤なルクルーゼでこんがりジューシーに焼き上げていたように記憶しています。

とどうやら、これは日本やフランスに限ったことではないことが昨日判明しました。ウズベキスタンのお鍋で作る肉詰めピーマン。色とりどりの大きなピーマンに、ひき肉、お米などが入り、お米は炊かずに生のところから煮詰めるようです。ごちそうさま!

その後東欧でも肉詰めピーマンは結構ポピュラーだということが分かり、肉詰めがもはやどこの料理か分からなくなってきました。それだけに、これぞワールドワイド家庭料理なのではと。肉詰め大好きの私としては、そのうち世界の肉詰めの研究でもしたいと思ったのでありました。家庭料理は、突き詰めたら、文化の多様性というプラスアルファを持ちつつも、案外基礎は同じところにあるのかもしれません。
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by Haruka_miki | 2007-11-10 00:00 |

夜寒に陰と陽を考える

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十一月に入って初めてお茶に足を運んだ。今月から、お茶では炉が登場する。こうなると、お手前の動きも変わるし、柄杓の扱いも、身体の動き全体も随分と異なる。火がお客さんに近いところに置かれたということは、その前に私にとっても、火が近いということであり、夜寒と言われる近頃であるが、今日の教室は随分と温度が上昇していた。

さて、今日話題に出たのは、手の扱いと陰と陽の関わりだ。お茶席で、裏千家と表千家では手の扱い方も随分違う。例えば、お客さんとして座っている時の、手の組み方だ。私は、裏千家の先生のところで習っているので、裏千家では右手が上、左手を下に組む。これが私の普通になっている。ところが、表千家では、反対に左手が上で、右手が下に組む。一説では、表千家で左手が右手に被るように手を組むのは、その昔茶の湯にいる時は刀を抜かぬように自制したからだという話もあるらしい。

その昔、左右の手は陰と陽に分かれていた。そして、陰と陽はひきつけあい、手を組んでいるときは、穏やかに陰と陽が歩みあう。さて、そんな話を元に、では裏千家と表千家では、なぜ手の組み方が違うか。上の逸話なんてもあるけれど、表千家と裏千家の違いは、この陰と陽の捉え方の違いと密接な関係があると思うのよね、とお師匠さん。

利き手か否かというものだけでなく、またただの「手」という大きなくくりではなく、左右の手をとっても陰と陽があるとは。栗と餡子のお菓子と、開けたてのお茶が大層美味しいのだが、そのお菓子を今食べようとしている自身の左手と右手とその動きも、陰と陽に関連していると思うと、なんだかやけに神妙な面持ちになって、考えるほどもったいぶった動きになった。

よく、一人の人間を陰か陽かに分けることがあるのだが、その一人の人にも陰と陽の両方が流れている。お茶における、右手と左手がそうであるように、自身全体がその二つの力で補われている。もちろん、常に穏やかにバランスを取り合うわけでもなく、時にせめぎ合い、時に一方が拮抗するのだが、まあそれでも陰と陽のバランスを取りたいと思った始第。その中で、陰と陽どちらが、表面に出てくるかは、その都度のお楽しみだ。
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by Haruka_Miki | 2007-11-07 00:00 | 芸術

究極のマーケティング

こういうブログで記すことが少しはばかれるようにも思いますが、とても大切なことですし。今朝読んだ、新しいタイプのコンドームに関するAssociated Pressの記事がなかなか面白かったのです。

"Anti-AIDS campaigners attempt to boost condom use by appealing to Ethiopian love of coffee"興味を引く話だからでしょう、CNNでもヘラルドトリビューンでもGuardianでも取り上げられています。

『アディスアベバ(AP) エイズの拡大防止に努める米国の団体が、アフリカ東部エチオピアで、コーヒーの香りがするコンドームを販売している。コーヒー好きが多い同国で、コンドーム使用率の上昇を図っている。 エチオピア政府の推計では、同国のエイズウイルス(HIV)感染率は2.1%で、首都アディスアベバでは7%を超えている。感染防止にはコンドームが有効とされる。 コーヒーの香りつきのコンドームを考案したのは、米ワシントンに本部を置くチャリティー団体「DKTインターナショナル」。コンドームのゴム臭に対する不満の声が少なくないことから、今回の商品を開発したという。利益が目的ではなく、コンドームを抵抗なく使ってもらうことを狙ったとしている。 「コーヒーの香りはみんなに好まれる」とDKTのスタッフが話すとおり、販売を開始した9月には1週間で約30万個が売れたという。価格は1箱(3個入り)が1ブル(約12円)で、他のメーカーのものより安く、喫茶店のコーヒー1杯の半分ほどとなっている。 DKTはこれまでも、その土地その土地にあわせて、ドリアン(インドネシア)やトウモロコシ(中国)などの香りがするコンドームを開発している。 』(CNN.jp, 2007/11/3)

ある外資系消費財の会社のマーケティング部で働く方に話を伺ったことがあります。マーケティングとは何か、その答えは、「いかに売りたい商品の売り上げを上げるか」だと明言されていました。私はその時、ある種の違和感を感じました。ニーズに基づいたマーケティングではなく、企業が売りたいものを売るためのマーケティング。それが現実かもしれません。しかし、言われぬ悲しさを覚えたのも事実です。

そのような現実が主流である中、エイズという目前の危機に挑戦するマーケティングは、とてもリアルで、必要不可欠で、しかし買い手が貧しすぎて利益を見込めないし、It just doesn't worth itという一言で片付けられ、市場がある意味目を背けてきたものです。

以前、とても興味深い話を聞いたことを思い出しました。カナダの大学に通っていた友人が取ったマーケティングのクラスでの先生の話です。マーケティングの教授曰く、「マーケティングは簡単だ。消費主義が当たり前の国において、それはいとも簡単な話だ。だけどみんな、そんなに高をくくるなら、考えてみて欲しい。発展途上国の、そうエイズで悩む国々で、明日ご飯にありつけるか分からぬ国々で、どうやったらコンドームを売れるか。これこそ究極のマーケティングだ。君達にそれができるか。」

私達にそれができるか。考え方によっては出来るようです。この記事に証明されるように。では、その資金をどうするか。ニューリッチの作った財団に頼る?チャリティーに頼る?NPOに頼る?国際機関が音頭をとる?それがまた次なる課題です。
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by Haruka_Miki | 2007-11-03 00:00 | 経済的営み