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パリ発 五感の穴

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パンの甘み、パンの重み

パンの国に赴く前だというのに、ここにきて最高のパン(そしてパン屋)に出会ってしまった(於)東京。ここのパンは本当に美味しいので、パンという域を超え、私は崇拝すらしています。その哲学、その職人さんらの姿勢を前に、私はまだ小者です。

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(野尻湖の小さな植物ちゃんたちも健やかなり)

日曜日なのにちゃんとした時間に起きて、秋の気配を感じつつ、ルヴァンのパンを買いに散歩に出かけて、パンの欠片をもぐもぐ食べながら家へ。パンを持つと、ずっしりとした重さがあって、その重みと紙袋をすり抜けて漂う独特の香りが、我がお腹をすっかり待ち、の体勢にさせます。カフェオレボールで淹れたてのカフェオレ飲みながら、作ってもらったフレンチトーストを食します。メープルシロップをかけても美味。あいにくのどんより空模様だけれど、一日出かけるエネルギーになりました。

さて、酵母の偉大さに気づいたりだとか、天然酵母のパンが美味しいと感涙するようになったりだとか、最近、段々自身にも目に見えて分かるように、我が母に感覚が近づいてきた二十六の夏の終わりです。以前から、私は、元々容姿は父似で、性格は母似でありましたが、ここのところはやはり母の遺伝子を強く感じるのです。母と娘というのは、こういう細かいところで少しずつ似てくるものなのでしょうか。
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by Haruka_Miki | 2008-08-24 00:00 | 五感

永続的なるlove affair

「これって永遠のテーマじゃないかと思って。」

友達がくれたお土産は、まずはニューヨーク地図の定番NFT-Not For Tourists Guide to NEW YORK CITYの2008年版と、アンディーウォーホルの言葉の引用を入れた壁掛けだ。私も友人も、紫が好きなので、こういうベッドルームの趣味が合う。だから、友人の家に居候する場合も、我が家のようにくつろいでしまうし、あちらもあちらで気ままにやっている。
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「I wonder if it is possible to have a love affair that lasts forever」というのを指して、友達は上の発言をしたのだった。どうだろう。可能だろうか。多分可能だろう。ちなみに、love affairとは通常、情事、という意味が一般的だろうが、広くは恋愛とも言えるかと思う。けれど、それを人々が欲しようと、そうでなかろうと、love affairとして残る確立はとても微々たるものなのではないだろうか、そのはかなさに、人々は賭け、機微なところを受け入れ・楽しみ・場合によって、諦めるのかもしれない。多くの場合、そのlove affairが永遠でなかったことを、多くの人は受け止め、次なる高みに関係性を持っていこうとするんだろう。

実際先人達の歴史なるものは、仕事で何を成し遂げたとか、そういうところは当然重要であるにせよ、実は根本的に、教科書で語られぬ部分として、愛や情感が紡がれているのが、人の歴史なんではと思う。どうしても、そういうセンチメンタルな部分で、歴史を読むと、この年号に何が起きて、というところ以外のその歴史上の人物を彩る周りの情の歴史に関心が及んでしまう。そんな情の歴史の教科書があれば、私はかなり没頭するだろうな。

さて、そうした融通が利かない場合は、本件が永続的でないことを認め嘆きつつ、次なるlove affairを模索し続けている人もいるのであろう。それを可能にする社会風土があり、時代や場所によって変化をしていくものなのであろう。

パッションから始まる関係、落ち着きや居心地のよさから発展する関係、苦手意識がいつしか恋心に変わる関係、色々あるのだろうし、ああ情愛とはなんと繊細で面倒で心地よく心地悪いものなのだろう。それは、生を授かったものとして、プログラムされたものなのか。人として生きられるということは、すなわちこの情を感じられることなのであろうか。だとしたら、面倒くさくても享受したい。何だかんだ言って、それは大層素敵で美しくヨハンシュトラウスも真っ青にはかないものだからだ。一人で気ままに生きる楽さとわびしさ、人と連れ添う温かみと忍耐さ、それはいずれもそれぞれのよさがあり、何が良い、悪いではなく、ただただ、c'est la vieなのである。
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(完全にlove affairモードが抜けきった姫)
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by Haruka_Miki | 2008-08-22 00:00 |

余韻の忘れ物

ある近い人が言った。夕方はいやだって。なんだかすごく分かるよ。それは静かな、郷愁的な、気持ちを誘う時間だ。特に、日本の夏の日のそれは、たまにとても静かでたまらない気持ちになるんだ。

抹茶を頂き、みたらし団子をほおばり、手巻き寿司を食らい、冷酒を愉しみ、浴衣を着て、寝そべって盆の花火を上から浴びて、線香花火比べをして、いっぱい日焼けをして、ビーチサンダルや下駄でどこまでも行く。今年の夏は、いつもの夏に増して、夏らしい。遊びまわって、お陰で夏ばて。

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日本を離れて、恋しくなるのは何であろう。それは、ピンポイントで、大切な人々である。それに加えて、店員さんのサービスのよさとか、しめさばの寿司とか、花火の後の月空とか、邪魔っ気な電信柱の向こうに見える夕日とか、火鉢とか、蚊取り線香の香りとか、美味しい料理酒が簡単に手に入ることとかもあるのだが、多分、一番恋しくなるであろうは、この社会が持つ、「余韻」かなと思う。

中学の頃によく唱って、大好きだった歌にThe Boomの「からたち野道」があって、何度となく観たドラマに「北の国から」があって、同級生に話してもはて?という感じに私はそれぞれにはまっていたわけだが、それは、随分と悲しい歌で、切ない作品で、私は当時よく意味が分からずに口ずさんでみたり、観ていたのだが、あの情感は、多分、この文化ならではの静けさを表していて、どうしょうもなく胸がしめつけられる。

人の、空間の距離感の取り方や、時間の間の取り方や、アクションの後の静けさ、そういう情感を一番恋しく思うだろう。そして一番懐かしく思うだろう。

それは、

手荷物にも預け用荷物にもおさまらない、航空便の小包にも船便にも入れられないんだ。
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by Haruka_Miki | 2008-08-18 00:00 | Nippon

あるふとした考え

私は、多分そこまでは夢想的ではないし、シニカルかつ現実主義的で冷ややかな見方もする性質なので、貧困撲滅、とか最貧国の人を救え、とかそういう命題にそこまで心が躍るわけではないのだが。特に、開発には懐疑的で、開発学というものの力関係に、援助するという思考回路に、どこかなじめないでいたことは告白しなければならない。そうは言っても、ふと、もう一度自分の仕事を考えた時に、出来上がった従来型の金融市場のスキーム生きることは、特にそこに適当な命題を見つけられないとするなら、その仕事は、今を生きるというよりは将来の蓄えとしていい過程と受け取っていた。だから、何だかんだ言って、世界の端の誰も何も気にせず、気にしてもどうしようもない状況について―人々のいがみ合いであり、殺し合いであり、政治的圧力であり、子どもが傷ついたり―そういうことを考えることは、一人のコミュニティを形成する人間として、理屈抜きで大切なんではないかと思っている。話が大きすぎるし、いかに、いつ、どのようなタイミングで、アクションを起こすのか、まだ模索中であるが。

人々のアクションに共鳴して、そこにヒントを見出すことは往々にしてあり、また本を読んでインスピレーションを受けることもある。人々とこうしたことを話すことで自分の思考の穴を見つけることもあるだろう。直近で、最底辺の10億人という本と、マイクロクレジットの文化人類学―中東・北アフリカにおける金融の民主化にむけて という本を読んだ。前者では、世界の最底辺の10億人がなぜその状況に置かれたかを滔々と述べ、後者では北アフリカにおけるマイクロファイナンスの可能性を淡々と分析していく。

政治にできること、資本主義にできること、両者にできないことは五万とあるはずで、反対にそれぞれにできることも五万とあるはずで、一偏にこれが解決方法だ、とか、これが世界の貧困の根本だ、という単純な話はないであろう。貧困というのから、余りにかけ離れた世界に私は生きていて、同じ言語を、同じ気持ちを共有することは簡単ではないであろう。人々の悲しみが、私の悲しみとは言い切れない現実で、しかし何とかしなくてはという気持ちはただのセンチメンタルな感情に過ぎないかもしれない。そして、最底辺とまではいかずとも、日本国内においても様々な人がいる現状に、目を向けずに、国外のまばゆい光をばかり見ようとすることは、ナイーヴすぎるであろう。

ナイーヴさを重々承知で、やはりコミュニティが、人が嬉しいことは私も嬉しいし、どうにかこうにか、その嬉しい楽しい感情を抱ける共同体を作っていく一翼になりたいし、それがライフワークになればこんなに嬉しいことはないと思う。最底辺とか、そういうのはよくわからない。できることならば、私は繊細な人間で、汚いこと、怖いこと、痛いこと、辛いことに関わりたくはない。開発がひょっとすれば胡散臭さと感じるのも、そういうことに関わりたくないという気持ちがどこかにあるからかもしれない。発想は抽象的過ぎて、問題提起はマクロすぎるのだ。そこを出発点に、やはり自身としては資本主義の力を味方に、しかしそれが当然全能的でないことを理解しつつ、さて人がまた、それ以外の方法で人がハッピーになれる方法を、次の二年間で考えたいと思う。
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by Haruka_Miki | 2008-08-14 00:00 | 経済的営み

エストニア姫と愛陀姫を観る

ニューヨーク在住の姫が遊びにきています。リュックサックにビーチサンダルにカーゴパンツに大きなサングラスという井出達で現れた友は、「うふふ、みんなこの国の人は親切だし、きちんとしてて、私の格好はひんしゅくだわ」と笑っています。

私の中で、東京は、世界の真ん中と言っても過言ではなく、アジアにも近いし、ヨーロッパとアメリカ東海岸はちょっと遠いけれど、いいロケーションだよね、島国だけどさ、何となく独自のスタンスでさ、と思っているわけですが、これは世界の人々の総意ではありません。日本という国は、とてつもなく魅力的で、慎ましくも香り立つ不思議な国というイメージが多いようで、それは例えば日本びいきの、もしくはアジア通の人々以外には、まだまだ相当のイメージを掻き立てる場所のようです。

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ですので、初来日を果たした友の反応といえば、ああ、何てコスモポリタンで、しかしなんと静寂に満ちていて、ネオンでさえどこか日本的で、街が綺麗なんであろう、人々が慎ましいのであろう、という驚きのようで、ニューヨークのタイムズスクエアが持てはやされる理由が今になっては分からないということらしい。

旅人の目線というのは、地元民の目線とだいぶ違って、彼女が写す東京は、彼女に映る東京であります。特に姫のお気に召したのは、夜の提灯の明かりと、店員さんの態度。そしてそれを横目に、どうして私の友達(つまりあたくし)はこんなに鼻っぱしが強いんだろう、と不思議そうですが。

上野で私の友人に時間を作ってもらい、彼のアトリエを観て大喜びの彼女。やっぱり、観光客として括られてしまうの、いやだよね。とはいえ、最後はやっぱり歌舞伎座は行っておかないとね。ちょうど、ヴェルディのアイーダを題材にした、野田秀樹演出の愛陀姫の幕見をやっていて、私も見たかったので二人鑑賞。歌舞伎はお能や浄瑠璃と違って、お弁当でも食べながらがやがや観るのが楽しいよね。本当は、寄席といきたいものですが、なかなかその方面は難しいので、またにしましょう。

早起きしたら、家の近くの神社からお囃子の稽古の音が聞こえます。太鼓のリズムに笛の音色、姫は、これは何の音!と大興奮ですが、日本の祭りに触れられるのは、暑い夏を選んだ夏の旅行者の特権でしょう。エストニア姫は、これから意気揚々いざ東海道の旅へ。大丈夫、ありがとうとおおきにが言えれば、きっと姫が感動した、静寂さと素敵なおもてなしで旅も彩られるはずです。いってらっしゃい!
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by Haruka_Miki | 2008-08-11 00:00 | Nippon

父さんと語る

聞いてくれて、受け止めて、時に優しく、時に現実的に、叱咤し、激励する、そういう親業を、私もいつかできる日がくるのだろうか。

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父が来日していたので、これからのこと、私のこと、妹のこと、両親のこと、色々と語った。父と夕飯を食べる日、父は、よし今日は思いっきり語るぞ、語りつくすぞ、と言った。父親というのは、母親に比べるとどうしても一緒に時を過ごす時間が少なくて、向かい合うよりも、背中を見て習え、といった側面が往々にしてある気がする。そのリエゾン役となるのは、大抵母親であり、父とは仲はよくても、一緒に過ごす絶対的な時間では、母には敵わない。

だから、今こうしてしっかり向き合ってくれること、話を200%するまで眠らないぞ、位の意気込みはとても新鮮だ。

通常、父は、多くを語らない。たいがいは、母と私が間を入れずに喋り通し、妹と父はすばらしい聞き手に徹する。語らずに、しかし口を開いた時の言葉は重い。家族の平和と幸せと沢山の笑顔を望んでいる。娘に、私たちなりの道を進んでほしい、それを最大限にサポートするから、娘達自身には目をそらすことなく、自分のハッピーを突き進んでほしいと願っている。それは、私自身の希望であるし、父の希望もまたそれと同じであると知ると、熱い気持ちになるのは当然のことであろう。

我が家には、息子なる存在がいない。娘だけなので、多分娘を持つ父さんならではの期待や楽しみや内なる想いがあるかもしれない。息子と娘で親として何が違うか見当もつかないが、どこかで、私は、そんな家族構成で男勝りに突き進もう、いや、男の子以上にはっちゃけていこう、という気負いを持って生きている。

最近仲良くさせてもらっている同僚もまた、6歳児のお父さんで、彼と娘さんの話を聞くのは相当楽しい。同僚は、娘さん(と2歳の息子さん)のことを、「面白いやつ」とか「いいやつ」と必ず相棒のような呼び方をする。それは、家父長制な父親の威厳を振りかざすとかでなく、相棒たちの成長を一方的に見守るのではなく、目じりを下げつつ一緒になって成長していこうという同僚の父親業に対する姿勢と哲学の顕われなのだと思う。彼が話す「相棒」たちの話は、大層面白く、豊かな世界観で、私はその話を聞くだけでも、胸がいっぱいになる。

様々な形で父親という存在があり、その受け止め方、自身の表し方も一様ではないのであり、父は結局は一人の人であり、一人の夫であり、一人の上司であり、元々は一人の部下であり、一人の音楽好きの青年であったわけだろう。最近、父親の存在は、よりはっきりした輪郭を帯びてきており、それは、もしかしたら、父がまた娘の私に対してもまた、ここにきて「話せるやつ」と言った具合に同様に感じていることかもしれないし、もしくは父が、私が6歳児の頃から父が私に感じてきたことを、私がやっと今になって理解し始めているか、いずれなのかなと思う。
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by Haruka_Miki | 2008-08-09 00:00 |

アイポッド忘れた。それもいいのだ

靴を買ってから、早数年、あまりにもこの登山靴が日の目を見る機会は少なすぎるのですが、今週は群馬の六合(くに)は野反湖に行きました。

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いやぁ、日本にはまだまだ私が知らない素敵なところが沢山あります。

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(これはなにかしら)

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(コオニユリ)

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(ハクサンシャジン)

年を重ねると涙もろくなる、と言いますが、それは不必要に感傷的になるわけではなく、シンプルな生、を一つとっても、その美しさや素晴らしさをより強く尊く思えるようになるからなのかもしれません。話は逸れますが、うちの祖母がね、毎朝電話をする時に、いつも、今日一日こうして元気に過ごせるのも、みんなのお陰です、おばあちゃんはこんなに幸せに生きられて感謝です。ありがとう、と心から感謝するのは、シンプルな喜びを体中で感じられる、素敵な次元に彼女がいるからなんだろうな。

花の美しさ、鳥のさえずり、木々の緑の濃さ、人の優しさ、それは粋がっていれば不感症になっていることで。私にも当てはまることですが、雑踏のざわめきがないとき、そして、そこまでの人生の経験値がない場合でも節目には、なんとも言いがたいものを感じるのです。
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by Haruka_Miki | 2008-08-02 00:00 |