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パリ発 五感の穴

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TIF②エイプリルフールと言える世界で死を見つめる

芸術は、ただ綺麗だとか、美しいだとかの印象や残像をもたらすだけでなく、メッセージ性を持って、時に私達の心に差し迫る。そのメッセージは、時に綺麗事では済まされず、残酷で、重い現実を、現実以上の形でえぐりだすように思える。少なくとも、私が芸術に惹かれる所以はそこに大きくある。週末に観に行った東京国際芸術祭で、レバノンの奇才、ラビア・ムルエ氏による初演「これがぜんぶエイプリルフールだったなら、とナンシーは」はまさに、この芸術の魅力を存分に魅せつけていた。公演後には、演出家で脚本家で俳優のムルエ氏本人によるポストトークも行われ、興味深い三時間であった。

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黒い三人掛けのソファ。狭そうに座る四人の登場人物。色鮮やかに変わる映像。長方形の白い床には、アラビア語のテキストがところどころで映し出される。人の動きがほぼない変わりに、映像は刻一刻と変化する。

それは、レバノンという国の血なまぐさい歴史を如実に表す作品である。レバノン国内でも、国民間でも様々な党派間の闘争が続く。多くの人々が凶弾に倒れる。では、その血の歴史が、明るいレバノンを創ったか。答えはノーである。現在の緊張に見られるように。

作品の中で、登場人物は、それぞれ自己紹介をすませると、自分がいかに「死んだ」かについて語り始める。時に順番に、時に重なり合うように。始め一人には一つの「死」があるかと思っていれば、そうではない。四人の登場人物は、レバノン内戦から2007年に至るまで、彼らは何度も「死に」、また「死ぬ」。私達観客は、彼らが死を演じるのを見るのではなく、彼らが自分の死を語るのを目撃する。四人の背後にある四枚のパネルには、その死の語りに見合った様々な映像が映し出されては、次の映像に変わっていく。奇妙な光景である。

その一見不可解な舞台装置と登場人物の語りは、ある種、同胞内にさえ、様々な意見が存在し、それ同士が反発・吸収・同盟・離別・利用し合うグループの存在、そのグループ間の闘争という哀れなレバノンの歴史を浮き彫りにしているかもしれない。またこの地域における『死生観』のようなものを映し出しているのかもしれない。

ムルエ氏が後のポストトークで強調したように、芸術とは、観る側が、それぞれの感性によって、自分なりの理解・解釈・印象・意見を持つものである。『正しい答え』は一つではない。とはいえ、レバノンという地理的にも精神的にも一見すると遠い存在を、己の観方だけにとどめておくのは余りに惜しい。実は、今回の作品には、思想アドヴァイザーがいらっしゃり、それだけに、作品の中で感じ取られる政治的・社会的意味合いには受け手が思う以上に綿密なプロットがあるようにも思える。

だからこそ、観る側としては、自分の解釈や疑問を投げかけたくもなる。ポストトークでは、その際に生じた疑問をムルエ氏本人に投げかける貴重な機会もあった。私は一つの質問を伺った。「作品で明らかなように、この作品で登場人物は何度も死を繰り返す。一度死んだのに、なぜかまた死ぬ。つまり、それは生物学的な『死』ではない。おそらく、百人百様の『死』というものがあるのだろう、では、『死』というのはムルエ氏ご自身にとっては何ですか」

ムルエ氏ご本人は、たいそう困った顔をして、「そのご質問は重要な質問です。が、残念ながら私からはお答えしかねます」と言われた。困り顔のムルエ氏に変わってお答えになったのは、思想アドヴァイザーのジャラール・トゥフィーク氏であった。氏曰く、おそらくレバノン人は死に方を知らない。自爆テロというものが世間で知られるようになって久しい。さて、自爆テロに出かける人は『二度死ぬ』のだと言う。まず、これから自爆テロに出かけるという表明をある一定の形式でビデオに収める。その後、身体的な死が待ち受けている。

その後で、ムルエ氏も口を開いた。興味深いことに、氏は自分が70年代以降何度も死んでいるとおっしゃった。もちろん氏はご健在であるわけだが、様々な政治的紛争が起こる度に、彼は国同様傷つき、心臓はえぐられ、皮膚はただれ、心痛以上の想いをされているに違いない。だからこそ、『死』はただの身体的な死ではない。いくら人の死が増えようとも、国内の状況は良くはならず、国はバラバラのままで、人々は当惑・疲労困憊・怒ったままである。

さて、私たち、レバノンの外の人間にとっては、その現実はあまりに非日常過ぎて想像もつかず、嘘のような話しである。そう、エイプリルフールのようである。ムルエ氏がこの作品につけたタイトル「これがぜんぶエイプリルフールだったなら、とナンシーは」は、あるアメリカ人のジャーナリストナンシーが、パレスチナの惨状を見て書いた記事のタイトルからつけられたとのことだ。

さて、舞台はナンシーはパレスチナとは変わってレバノンである。

ムルエ氏がどれほど心を痛めようと、もがこうと、それは彼にとっての現実である。エイプリルフールだったらと望むことさえ虚しい。それに引き換え、私は、そう、その舞台でムルエ氏が舞台の一部で、私はそれを観る側であったことに象徴されるように、エイプリルフールだったらね、と言ってしばらく現実に対面しないことを選ぶことができる世界に生きているのだ。

「彼」と「私」で、死の迫り方・速度・度合いが比にならぬことを、舞台をもって知ったのだった。

ラビア・ムルエ氏過去作品集(東京国際芸術祭サイトより)
http://tif.anj.or.jp/movie/rabih.html
by Haruka_Miki | 2007-03-27 00:00 | 芸術
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