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パリ発 五感の穴

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共犯関係について

横浜ZAIMにて行われたSurvivart主催のトークイベントに足を運びました。いやぁ面白かったです。異なるバックグラウンドで、かつアートに関心を持っている・どっぷりその世界で生きている方に会えました。今回のトークイベントは、「共犯関係」をテーマに、P3 art and environmentを主催されている芹沢さんと、東京都美術館の住友さんのトークセッションの後、聴衆を含めてのディスカッションに。

私は、今までのイベントに参加したことがないので、この言葉を耳にすること自体が初めてだったのですが、聞いたときに耳に違和感を感じたのでした。そして、それがこの言葉を利用する狙いだったりするのでしょう。コラボレーションでなく共犯関係。定義に関しては上のリンクを。

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アートの世界での共犯関係。私はここ3年は少なくとも、一週間のうち5日は会社=経済的存在に深く関わっているので、アートにおいての自身の経験というのは極めて少ないですが、自身の立場からこのテーマを考えてみました。話を咀嚼して、自身で考えるところ、どちらかと言えばこの共犯関係というのは、例えばディスカッションでもチラッと出ていた、文化・芸術的目的を基盤とするか、政治・経済的目的を基盤とするかで随分と異なるのでしょう。芸術が、既定事項・固定概念を揺さぶり、ぐらつかせ、人々を開眼させ、時に打ち壊し、新たなものを作り出そうかということを指すのだとすれば、芸術の命題自体が共犯(ないしディスカッションで出た言葉「互犯」)です。後者はやはりだいぶ異なるでしょう。いわゆる政界・経済界という意味でなく、芸術の現場でもこの政治・経済的要素が見え隠れするでありましょう。しかし、反対はありかと言えば、基本的に政治・経済が芸術になり得るかという反対の方向性は、命題に反する気がします。

自身が経済的存在の中で生きていることを前提にして考えると、芸術(いわゆる芸術活動、絵を描く、美術館に置くという物質的なものでなくて、もっとコンセプトとしての芸術)の世界での政治・経済との共犯関係は多いにありうるのだと思えるのでした。つまりは、政治・経済が芸術と手をつなぐというのは、ある意味でコラボレーション的意味合いが多くなりがちだと思うのです。それは例えば、ギャラリーと芸術家であったり、ある美術展のスポンサーとしての企業と芸術だったり。逆に、政治・経済全体が芸術と共犯することはある種命題にそぐわないところがあります。あくまで芸術は確信犯として政治・経済に対しての企てを構築し、共犯というよりは政治・経済的なものの中の「誰か」なり「何か」をだまくらかす位な気負いが要されるのかと。それこそが、芸術の定義に思えるからです。

政治・経済なるもの全体と「芸術」が共犯関係になることは、経済的存在に属している私個人から言えば極めて難しい気がするのですが、芸術が経済的存在にある種のメリットを示唆し、そこで経済的存在側は利益の創出という観点、社会貢献によるイメージ向上などのメリットを享受する「コラボレーション」と考え、いやしかし実際は経済的存在は芸術にだまくらかされているというのが私のイメージです。逆に、芸術が政治・経済なるものにだまくらかされるかと言えば、その命題として芸術はその状況に立ち向かい、打ち砕き、突破しかえって相手を見返す位の大きな力を持つし、持っているはずなのだと思います。

元々共通の目的を持っている存在同士は、共犯関係になり得ないとの話も興味深く聞きました。それに付け加え、それぞれの存在の異分子性以外に、関係性がフラットか否か、フラットでなければどちらが優勢か、また表向きに優勢である場合、本質的にその存在が優勢なのか、様々な切り口から、芸術と経済の共犯関係は考え得るのではと思いながら自転車飛ばして帰路についた次第です。
by Haruka_Miki | 2007-12-15 00:00 | 芸術
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